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赤ちゃんのいる日々

娘が出産して里帰りしてきた。私たち夫婦にとっては初孫である。二人だけの静かな余生を送っていた我々の身辺が急にあわただしくなってきた。朝から晩まで、赤ちゃんの様子を見ては一喜一憂する日々が続いた。道ばたのお地蔵さんのような細い目をして眠る赤子を、私は飽きもせずに眺めた。眺めながら、我ながら不思議な心持ちになってきた。生まれたての赤ん坊は、何故かくも大人を(特に老人を)魅了するのであろうか。昔から孫はかわいいと言う。確かに自分の孫は格別なものがある。しかしただ単にかわいいというだけではなく、そこには何かもっと深遠な記憶が隠されているような気がしてきた。太古の地下水脈のように、それは人間の魂の奥深くを流れている情念のようなものではなかろうか。

 

今人生をスタートしたばかりの小さな生命は、当然のことながら、自分では何もできない。彼女に出来ることはただ泣き叫ぶことだけである。お腹が空いたことも、排泄したことも、暑いのも寒いのも、その他もろもろのサインが、オギャーオギャーという単調な音声の中に込められている。だからわれわれ三人の大人は、赤ちゃんが泣き叫ぶ度に、雁首をそろえてその意味を推測せねばならなかった。

 

赤ちゃんは、その小さな体躯の割に、泣き声が大きい。大きいだけでなく、それは聞く者の感性に突き刺さってくるような響きがある。だから身近にその声を聞いた者は、居ても立っても居られなくなる。せき立てられるようにして立ち上がり、オロオロと動き回る。抱っこしてあやしてみる、母乳を含ませてみる、オムツを取り替えてみる、あぁ、それでも赤ちゃんは泣き止まない。思わず「何かしてもらいたいことがあったらハッキリ言葉に出して言ってね!」と口走って、ハッと気がつく。そうだ、赤ちゃんは言葉を話せないのだと。

 

赤ちゃんは言葉を話せない。しかも衣食住のすべてを大人に依存している。言葉を話せない赤ちゃんと、「言葉がすべて」の現代人とのコミュニケーションほど難しいものはないだろう。私はその責任の大半は「大人」の側に帰すべきであると考える。何故なら言葉、特に文字などというものを発明したのは人間だけだからである。地球上のあらゆる生き物、ヘビもカエルも、カラスもスズメも、キツネもタヌキも、文字や言葉を持たない。しかし文字や言葉を持たないからといって、彼らがコミュニケーションに不自由した形跡は見当たらない。彼らは彼らなりの方法で情報のやりとりをしており、この世界で脈々と生命を繋いできたのである。文字や言葉を発明した人類だけが、あまりに文字や言葉に頼りすぎたが故に、本来備わっていたはずの「生き物」としての交信本能を忘れ去ってしまったのである。

 

赤ちゃんは言葉を話さない。言い換えればまだ人間になりきっていない。魂の大半はいまだ安らかな無明の世界を漂っている。今この世に生を受け、心地よい眠りから引きはがされて、人間としての個体を形作るべく試行錯誤している。すやすやと眠る赤ちゃんが突然何かに驚いたようにビクッと動いた。まだよく見えない目を見開き、目玉をキョロキョロと動かして、白目をむいた。細い手で空中を縦横にかき回し、まるで何か邪悪なものを払いのけるようなしぐさをする。あぁ、赤ちゃんは今人間になるために必死にもがいているのだ。この3キロにも満たない小さな生命は、既に人類20万年の業を背負わされて、何者かと懸命に戦っているように見える。

 

眠っているときの赤ちゃんは、まるで仏様のように穏やかな顔をしている。小泉八雲が指摘したように、日本人は仏の顔を赤子に似せて作ったのである。われわれの祖先は、安らぎに満ちた赤ちゃんの寝顔を見て、これこそ自分たちが来た道であり、いずれは帰ってゆく魂の故郷だと思ったのであろう。先日の新聞の人生相談に、出産したばかりの若い母親からの投書が載っていた。義母だったか義理の祖母だったかがお見舞いに来て、生まれたばかりの自分の子供を見て手を合わせて拝んだ。死者を拝むようで縁起が悪い、と若い母親はひどく憤っていた。今後その義母だか義理の祖母とどのようにつきあっていけばよいのか心の整理がつかない、という風な内容だった。この質問に対する回答はよく覚えていないが、赤ちゃんの仏性については何も触れていなかった。しかし私は、赤ちゃんを見て思わず手を合わせたそのおばあさんの気持ちが分かるような気がするのである。

 

赤ちゃんが泣き出すと、眠っているときの穏やかな表情からは想像もできないほどすさまじい形相になる。顔を真っ赤にして、大口を開け、舌を巻き上げて、不動明王のような憤怒の表情を作る。カエルのようにおなかを膨らませ、せわしく咳き込むようなリズムで、辺りをはばからず大音声で泣き叫ぶ。赤ちゃんは泣くときに涙を流さない。彼女は別に悲しくて泣いている訳ではないからである。赤ちゃんは自分の生存をかけて、大人たちを奴隷のようにこき使うため、あえて不動明王のような憤怒の表情を作って、威嚇するように泣くのである。赤ちゃんの生命がけの泣き顔に比べたら、大人がシクシク泣く姿などまるで能面のように無表情に見えてくるではないか。

 

眠っていた赤ちゃんが目覚めて一人で遊んでいるときは、百面相のように豊かな表情を見せる。まだよく見えない目は(視覚との密接な関連がないので)、ベアリングのようにぐるぐると回すことができる。時には目玉が裏返って座頭市みたいに白目をむき、見ている者をドキリとさせる。口元は、眠っている時は真一文字に結ばれて、賢そうな表情を作るのに一役買っている。しかしいったん目覚めた赤ちゃんの口は、エサを求める池の鯉のようにパクパクと動き回る。舌を使ってチューチューと音を立てて、お乳を飲むようなしぐさをする。突然スィーと口をすぼめて、ひょっとこみたいな表情を作って皆を笑わせる。赤ちゃんの顔はつきたての餅みたいにつるつるとしている。ところがいったん泣き出すと、顔中が無数の細かい皺で覆われる。どんなにシワくちゃな老人よりもたくさんの微細な皺が、同心円状に赤ちゃんの顔を覆いつくす。

 

赤ちゃんはわがままである。時と場所を選ばず、突然オギャーオギャーと意味不明の大音声で泣きわめく。大人が夜も寝ないでお乳をあげ、おむつを取り替え、抱っこしてあげても、当然のような顔をしている。感謝の一言も無い。それでも赤ちゃんは皆に愛されている。おじいちゃんも、おばあちゃんも「可愛い、可愛い」と目尻を下げて抱っこしている。抱いているおじいちゃんと、抱かれている赤ちゃんの表情は対照的である。おじいちゃんは自分の孫が可愛くてたまらないという顔をしている。ところが赤ちゃんの方は、おじいちゃんとおばあちゃんの区別さえつかない。彼女は自分が生きていくことだけで精一杯である。

 

先日のテレビで、日本と外国の子育ての違いについて取り上げていた。ある外国人は、日本人の夫婦が赤ちゃんを真ん中にして「川」の字になって寝るのは理解できないと言っていた。外国(主に欧米)では、赤ちゃんは別室に一人で寝せるのが一般的だと言う。中には生んだその日から別室に寝かせたと言う女性もいた。その理由は主に家庭では夫婦の関係を最重視するという欧米流の考え方から来ているという(その割に離婚率が高いのは何故だろう)。日本では子供が生まれたら夫婦はお父さんお母さんと呼び方まで変えて、子供の目線で家族関係が築かれている。外国人にはこれがとても奇異に映るようである。

 

人間も、ヘビもカエルも、カラスもスズメも、キツネもタヌキも、胎内の嬰児の姿は驚くほど似通っている。それが成長するにつれて、ヘビはヘビらしく、カエルはカエルらしく、人間は人間らしく、それぞれの大人に枝分かれしていくのである。人間も、ヘビもカエルも、カラスもスズメも、キツネもタヌキも、何十万年も何百万年も祖先を遡っていけば元は同じ「生き物」である。だから生まれたばかりの赤ちゃんは、たまたま人間の子として生を受けたにせよ、その魂の奥深くには太古の「生き物」としての記憶が多分に残されている。大人にとって(特に現代人にとって)、赤ちゃんが時折見せる原始的なしぐさは、もうとっくに忘れてしまった遠い昔の風景のように感じる。その遠い昔の風景になんとなく親しみを感じる者と、異質な物として切り離す者との違いは、それぞれの社会に固有な人生観や宗教観に根ざしていると思われる。夫婦が赤ちゃんと「川」の字になって寝る日本人は前者に属し、言葉を話せない(論理的でない)赤ちゃんは別室に隔離する欧米人は後者に属する。

 

赤ちゃんは一ヶ月になると、おばあちゃんに抱っこされてお宮参りをする。八百万の神々にお世話になりましたと挨拶をする。やがて首が据わり、ハイハイするようになり、お誕生日を迎える頃は自力で歩けるようになる。赤ちゃんは好奇心が旺盛なので、おぼつかない足取りであちこちと歩き回る。手にした物は何でも口に入れる。この頃の赤ちゃんからは目が離せないので、母親は猫の手も借りたい程忙しくなる。赤ちゃんが片言の言葉を話せるようになると、いよいよ人間としての第一歩を踏み出したことになる。保育園や幼稚園に行ってお友達ができると、さらに言葉を話す機会が増えてくる。幼児はもともとおしゃべりなので、幼稚園はまるでスズメの学校のように賑やかである。

 

保育園・幼稚園を皮切りに、子供は小学校、中学校、高等学校、さらに大学と、延々と学校教育を受けることになる。教育の中味は主に言葉や文字や数字を覚えることに費やされる。いわば現実の世界を抽象化する訓練である。赤ちゃんが本来備えていた「生き物」としての直覚的な交信本能を消し去り、新たに言葉や文字や数字などの抽象的な記号によるコミュニケーションを身につけるためである。これは言い換えれば、市場経済システムという巨大なヴァーチャル世界で使われるゲームのルールを学ぶことである。江戸時代のわれわれの先人達は自分で食べるものは自分で作っていた。ところが現代人は、生活の資のほとんどを市場にアクセスすることにより手に入れることができる。その結果、現代人にとってヴァーチャル世界(市場経済社会)の言語に習熟することは、生きていくための必要最低限の条件となったのである。

 

人間は宇宙を一たん言葉や文字や数字に置き換えることにより、事物を抽象的に捕らえる方法を学んだ。混沌とした世界は言葉に置き換えることにより細分化され、一つの断片に切り取ることができる。咀嚼し、理解し、飲み込み易くなる。そして何よりも、それは記号化され客観化されて、交換が可能になったのである。人々は言葉を交わすことにより、情報を共有化することができるようになった。

 

言葉は便利なものである。アリやハチが本能で集団を形成するのに対し、人間は言葉を使って社会を形成してきた。言葉を使うことにより、より複雑で高度な情報交換が可能になった。やがて人間は文字を発明して、言葉を紙の上に静止させた。紙の上で言葉は時間が止まった。言葉は煙のように大空に消え去るものではなく、永遠にその姿を止める事が可能になった。言葉は文字化することにより視覚化され、より正確で客観的なものに変わった。紙を持ち運ぶことにより、言葉は遠方まで伝えることが可能になった。時間と空間の制約を解き放たれた文字情報は、より広範囲に、より精密な集団を形成することができるようになった。機能的な会社組織や、病院や大学や、政府や国家や、さらにグローバルな市場経済システムが築き上げられた。現代の高度に発達した文明社会は、言葉で出来上がっていると言っても過言ではない。

 

言葉は大成功を収めた。その結果言葉は万能となり、言葉は人間そのものとなった。真実は言葉で表せるはずだと考えられ、言葉で表現できない物事は取るに足りない戯言だとされた。人びとは一日中座って、言葉を交換し、文字を読むことが仕事をすることだと思い込むようになった。社会には言葉が氾濫し、朝から晩まで言葉のシャワーを浴びるようになった。デジタル機器の発達により、言葉はそのまま記録することが可能になった。人びとは機械を点検するように他人の言葉を分析し、ちょっとでも間違いを見つけるとまるで鬼の首でも取ったように騒ぎ立てるようになった。デジタル化された言葉は加工することが可能になり、事実をねじ曲げられた言葉が相手を攻撃する材料に使われた。人間にとって便利な道具であるはずの言葉が、副作用のように人びとを苦しめるようになった。

 

赤ちゃんは今日もすやすやと眠っている。あまりに可愛いので写真を撮ろうと構えた。パシャッというシャッター音に、赤ちゃんがビクッと身を震わせた。赤ちゃんはデジタル音が苦手なのである。台所で夕飯の支度をすると、赤ちゃんはオギャーオギャーと泣き止まない。料理をするときのニオイが気になるみたいだ。赤ちゃんは、犬や猫と同じように、ニオイや音に敏感である。まだ野生の感覚が残っているのである。赤ちゃんもいずれ一人前の大人になる頃には、臭覚も聴覚も人間並みに衰えることだろう。そして五感の中では視覚だけを重視し、何でも視覚化しないと理解できない大人になるのかも知れない。抽象的な言葉を話し、抽象的に物を考え、抽象的な街を歩く大人になるのかも知れない。しかし、どうか忘れないで欲しい。大人もむかしは、一度は赤ちゃんだったということを。諸君が「言葉の社会」に行き詰まったら、立ち止まって思い起こして欲しい。人間も、ヘビもカエルも、カラスもスズメも、キツネもタヌキも、何十万年も何百万年も祖先を遡っていけば元は同じ「生き物」だったということを。

 

(2018/04/20)

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