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戦後70年に想う

今年(2015)は戦後70年ということでマスコミでも色々と話題になっています。ところが私はその終戦の日が誕生日なのです。昭和20815日の正午頃に、私は関東州(満州)旅順郊外の金州・閻家楼というところに生まれました。最近わかったことですが、ここは乃木将軍の長男が日露戦争で戦死した場所だということです。

 

現在の私の職場は青山で、すぐ近くに青山墓地があります。都心にしては緑が多く敷地が広いので、昼休みによく散歩します。お寺の脇から入ってすぐのところに乃木将軍のお墓があります。思ったより小さなお墓です。百坪以上もあろうかという大久保利通の墓に比べると、まことに質素なものです。漬物石のような乃木さんのお墓の前には、日露戦争で亡くなられた二人のご子息の墓が並んでいます。ある日何気なく石塔に刻まれた文字を追っていると、ハッと驚きました。

 

乃木勝典

明治三十七年五月二十六日金州城東南角壁外ニ戦傷

同二十七日閻家楼第一師団第三野戦病院ニ歿ス

 

金州の閻家楼とはまさに私の出生地です。これも何かの縁かと思い、それ以来私は時々乃木さんのお墓にお参りをしています。石に刻まれた文字を眺めながら、私はぼんやりと日本の歩んできた歴史について思いを巡らします。明治維新以来の我が国の近代化の歴史は戦争の歴史でもありました。日清・日露に始まり、特に今次の大戦では未曽有の被害を出しました。どこの家でも肉親に戦死者が一人や二人いるのは珍しいことではありません。激しい空襲で、日本国内いたるところが戦火に見舞われました。戦後70年が経ちましたが、いまだに国民の心の中には深い戦争の傷跡が残っています。

 

一つ違いの兄と、生後一年半の私は、母に「おんぶ」と「だっこ」で真冬の日本に引き揚げてきました。終戦の混乱の中で、母の苦労は並大抵のものではなかったろうと思います。女ばかりの6人姉妹の真ん中に生まれた母は、どちらかといえばおっとりとした娘だったようです。この小柄な女性のどこにあの激動の時代を乗り切ってきた激しい気性が潜んでいたのかと思うと、なんだか不思議な気持ちがしてきます。母は今年95歳で健在です。

 

私の父はノモンハン事件の生き残りで、父の兄はガダルカナルの生き残りです。ノモンハンもガダルカナルも激戦で、戦死者の中に飢えや病気で倒れた者が多数含まれていた点が似通っています。それもそのはずで、両戦とも辻政信という参謀が作戦に深く係っていました。弾薬も食料も底をついた中で、陣地を死守せよとのむちゃな命令が被害を大きくしました。この激戦の中でも、私の父も伯父も無傷で帰ってきました。極限の状況でもめっぽう生命力の強い野崎家は河内の国・野崎村の出身で、楠木正成を先祖に持つ家系だということです。

 

終戦の日に生まれた私が、いまや70歳の老人になろうとしています。ノモンハンを戦った父も、ガダルカナルの伯父も、既に他界しています。戦争を体験した世代が徐々に少なくなってきました。戦争の記憶も、空に立ち上る煙のように、次第に薄まり消え去っていくのもやむを得ないことかも知れません。ところが奇妙なことに、記憶が薄くなってきたこのタイミングで、まったく別な形での「歴史観」が横行し始めています。

 

それは「ナチス」や「ヒトラー」、「侵略戦争」や「植民地支配」など、断片的な言葉のレッテルを貼って歴史を断罪する現象です。これらの単語に異議をはさむ者や、説明を試みる者は、まるでツイッターが炎上したように総攻撃を受けます。人々は腫れ物に触るように、レッテルを貼られるのを避けるようになりました。そこには、当時はどういう困難な時代だったのか、人々はどんな気持ちで行動したのか、という生きた人間に対する洞察がまったく欠落しています。

 

小林秀雄は、歴史とはその時代に生きた人々の心持ちを思い起こすことだと言っています。歴史とは記憶です。その時代の人々が、どんな条件の下で、どのように感じていたかを、現代によみがえらせる行為です。現在の尺度で過去を判断してはなりません。これは言うは易くして、行うはたいへん難しいことです。われわれは、知らず知らずのうちに、現在の色メガネを通して過去を判断してしまいます。そして良いとか悪いとか、白だとか黒だとか、デジタルな結論を出しています。

 

幸いにも、我々にはドラッカーの著作が残っています。「経済人の終わり」という彼の処女作は、第一次大戦と第二次大戦に挟まれた時代のヨーロッパ社会を克明に描いています。ヒトラーや全体主義、大恐慌や両次の大戦の中で、生身の人間がどのように感じて、どのように行動したか、各ページは鋭い識見に満ちています。これは彼が20代の後半に書いた作品で、1939年に出版されました。この若さで、この博識と、深い洞察力には驚嘆します。天才とはいるものだと、つくづく感心しました。

 

ドラッカーはマネジメントで有名ですが、最初は社会に対する関心からスタートしています。彼は日本ともたいへん関係が深く、日本美術の収集家でもありました。戦後70年を機に、本当の歴史を知るためにも、皆さんも是非本書を一読されることをお勧めします。特に浅薄なレッテル・ゲームにフラストレーションが貯まっている方は、目からウロコが落ちること請け合いです。

 

ドラッカーは全体主義を、あの頃世界に蔓延した「社会の病」だとしています。人間に病があるように、社会にも病があるのです。全体主義は残忍だ、非人道的だと非難しても、なんら病気の説明をしたことにはなりません。それは単に病気の症状を述べているに過ぎません。ガンは残酷なものです。罪もない幼い子供が、万力のように締め上げられます。「お母さん助けて」と子供が泣き叫ぶ。病はどんな拷問より残忍で、非人道的なものです。しかし「ガンは絶対反対だ」と訴えても、病は治りません。病を治すためには、その原因を突き止め、正しい治療法を確立した時初めて可能になるのです。

 

同じく社会の病を治すためには、「戦争は絶対反対だ」とか「あの国は非人道的だ」とデモ行進するだけでは不十分です。その本当の原因を突き止めたとき、初めて有効な対策を打つことができます。社会の病の治療法はまだ確立していません。21世紀の現在でも、世界中いたるところで全体主義が猛威をふるっています。全体主義はなにも独裁国家の専売特許ではありません。われわれの身近な日常にも、組織のあるところには必ず全体主義的な発想があります。組織がうまく機能しないと、人々は全体主義に走ります。目標を見失うと、組織そのものを目標にします。

 

我々は「社会が崩壊する」とはどのような状況になるのか、想像できるでしょうか。21世紀の成熟した社会に住んでいると、それは水や空気のように透明で、普段は意識さえしない存在です。ところが実際に崩壊してみて初めて、人々は現代社会がどのような成り立ちになっているのか実感します。忘れてはならない事は、戦前のヨーロッパでも、アメリカでも、日本でも、社会が崩壊したという事実です。人びとは生きる術を知らない赤子のように、社会の外に放り出されたのです。

 

江戸時代の農民を現在の東京のど真ん中に連れて来たら、度肝を抜かれることでしょう。林立する高層ビルの間を流れる自動車の群れ、通勤電車から溢れ出てくる人の波、何層にも交差する地下鉄や地下街、24時間眠らない都市、等々挙げ出したらきりがありません。しかし都市の外観よりも、彼が最も理解に苦しむのは、誰も自分が食べるものを自分で作らないということでしょう。コメも野菜も、魚も肉も、信じられないほど豊富な食料が店頭にあふれています。現代人は衣食住のすべてを「お金」で買います。

 

江戸時代の人々の大半は、自分で食べる物を自分で作っていました。隣の家も、そのまた隣の家も、同じようにコメを作り野菜を作っていました。だから何百人、何千人という人間が一緒に集まって住んでいても、それによるシナジー効果はほとんどありません。人々は自分で作ったものを自分で消費して、経済は完結していました。

 

ヘンリー・フォードはまともに小学校も出ていない程の無学な人間ですが、おかげで経済学の常識に捕らわれない自由な発想をすることができました。彼は自動車の製造工程に流れ作業方式を導入して、大量生産とコスト削減に成功しました。自動車の価格は下がり、大衆にも手の届くものになりました。このシステムは最も効率のよいものとして、あらゆる生産現場に普及していきました。工場だけではなく、学校や病院や政府の組織でさえ組立ラインを模倣するようになりました。

 

ヘンリー・フォードの流れ作業方式は、いわゆる「分業」の理論を応用したものです。アダム・スミスは「国富論」の中で、分業について次のように述べています。ピンの製造は、どんなに熟練した職人でも、一日でせいぜい20本作るのが限度である。ところがこの製造工程を18の作業に分解し、10人の職人が担当すると、一日に48,000本のピンを製造することができる。職人一人当たり4,800本の勘定になる。つまり製造工程を分業化することにより、生産効率は240倍にハネ上がったことになります。

 

要するに分業とは、先ず仕事を徹底的に分解し細分化する。次にこの単純化され標準化された作業をひたすら繰り返すことにより、生産効率を上げる。そして最後にベルトコンベヤーでパーツを組み立てて完成品に仕上げる。問題はこの生産方式では、各個人は細分化され標準化された、パーツのような単純労働を毎日繰り返すようになるということである。バカでもできるような仕事を毎日繰り返す人間が、本当のバカにならないという保証はないのである。

 

この生産方式を国家レベルに張り巡らしたのが近代社会です。自給自足の農民は鍬を捨て、農地を捨てて、学校教育を受けるようになります。読み書きを覚えた彼は、巨大な社会のベルトコンベヤーのどこかに組み込まれます。そしてパーツのそのまた切れ端のような、細分化・標準化された仕事を毎日繰り返すようになります。ところが単純労働の代償として「給料」を手にした途端に、彼は巨大なマーケットにアクセスできる力を手にすることになります。食べる物も、着る物も、娯楽も、あらゆる商品を市場から調達できるようになるのです。

 

このシステムでは、人は全く異なる二つの側面を持っています。一つは生産者という立場であり、もう一つは消費者という側面です。人はこのゲームに参加するためには、先ず生産者になってマーケットに物を売り、「お金」という数字を手にいれなければなりません(売る物がない人は、自分自身の時間と能力を売り給料を貰う)。そして一旦この数字を手に入れた者は、市場を介して、何百万・何千万という他の生産者の成果物にアクセスできる権利を手にするのです。

 

「市場経済」とか「資本主義」などと呼ばれているこの社会システムは大成功を収めました。江戸時代や鎌倉時代のわれわれの先人たちから見れば、想像を絶する豊かな社会です。この世に極楽浄土が出現したと言っても過言ではないでしょう。しかし人間の作ったものに完全というものはありません。ときには故障したり、壊れたりすることもあります。停電すると生活がニッチもサッチもいかなくなるように、便利になればなるほど、それが失われたときのダメージは大きくなります。

 

戦前の1929年に実際にこの市場経済システムは崩壊しました。この衝撃は世界中に広がり、大恐慌に発展しました。失業率は25%にものぼり、何千万人もの人々が社会のネットワークから振り落とされました。生きるすべを失った人々が街にあふれ、社会は不穏な空気に包まれました。この状況は第二次大戦が始まるまで、10年間も続きました。ナチスやヒトラーはこのような状況下で登場してきました。解体した資本主義・市場経済システムから振るい落とされた人々を、どうにかして社会という外殻に繋ぎ止めようとする必死のあがきが全体主義だったのです。

 

もちろん全体主義の残忍さや、自由を束縛する暴力は許すことはできません。だからといって「ヒトラー」一人にレッテルを貼ってすべておしまいというのは、あまりに短絡的過ぎます。特に今次の大戦は、一部の戦争指導者に率いられたものであり、国民はむしろ被害者であるとする発想です。死者や敗者にすべての責任をなすりつける魔女狩りのような態度が、現在の「歴史認識」の世界的な潮流になっています。しかし思考停止したようなこの態度が、とうてい歴史を直視しているとは思えません。ドラッカーは「経済人の終わり」の中で次のように述べています。

 

しかし、大衆が乗り気でなく、抵抗しているにもかかわらず、政府が反ユダヤ主義を強化し、カトリック攻撃を加速化するなどということはありえない。大衆の意思に反して何かをするという全体主義政権はありえない。何ものにも束縛されない絶対的存在である「総統」でさえ、民主主義国の政府よりも、大衆の鼻息をうかがっている。  P.213

 

船が難破して暗い海に放り出された人びとは、われ先にと漂流物にすがりつくことでしょう。あるいは泳いでいる人間にさえしがみつくかも知れません。市場経済というネットワークに組み込まれた人びとは、社会の中でしか生きる術を知りません。彼は社会を信じていたからこそ、一日中単純労働に耐えることができたのです。その社会が崩壊したとなれば、何を信用していいのかわからなくなります。五体満足の壮年が3年も4年も失業していたら、責めなくてもいい自分を責めるようになるかも知れません。戦前の社会を覆っていたのは、人々のやり場のない暗黒の「絶望」です。不条理に社会との絆を断ち切られた群衆が、われ先にと全体主義の魔術にしがみついていったのです。

 

金融危機や大恐慌などと呼ばれる現象は、この「お金」のシステムが故障したり、修復不能に陥ったりした状況のことを指しています。金融危機は10年ごとに襲ってくると言われています。リーマン・ショックにITバブル、アジア通貨危機に日本の土地バブル、ブラック・マンデーにブラック・サーズデイと金融危機の歴史は数百年前まで遡ることができます。資本主義の歴史は金融危機の歴史でもあります。最近その修復法は進歩してきたと言われていますが、システムそのものの故障は少しも減っていません。このように見てくると、故障の原因は、このシステムそのものに内在する問題だと考えられます。

 

私は40年以上経理の仕事をして、メシの種にしてきました。若い頃は経理がイヤでたまりませんでした。それが一生の仕事になろうとは、本当に皮肉なものです。昔の経理課はシーンと静まり返った室内に、パチパチというソロバンの音だけが響いていました。私はソロバンが苦手だったので、いつも数字が合わなくて悩まされていました。経理の言語は数字です。数字が合わないことには、帳簿を締めることも、決算をすることもできません。恐らく経理の仕事の60%70%ぐらいは、数字合わせに費やされていました。なんというムダな時間でしょう。私は漠然と、経済活動という最も人間臭い行為を、どうして数字という最も融通の利かない言語で表現しなければならないのか、と思っていました。

 

アダム・スミスは「経済人」という概念を作り上げて、経済学を科学にしました。「経済人」とは、功利性のみによって行動する仮想上の人間です。彼は一番儲かる方法をすべて知っている万能人間という想定です。これによって人間の経済活動は数字に置き換えることが可能になりました。天文学や物理学のように、数字を分析することにより、経済の「法則」を導き出すことができるようになりました。経済学では人間は玉突きの玉のように、一度コツンとたたけば、あとは計算どおりに決まったルートを動くと考えられました。

 

もちろんこの考えが誤りであることは、経済学者以外なら誰でも分かっています。なぜこのような単純なミスを犯したのかというと、経済活動の言語に「お金」という数字を使っているためです。経済活動に使う「数字」とは、ただ単に品物の値段を「人間」が市場で、感覚的に数字に「置き換えた」だけです。物理学や天文学のように、物質を厳密に「測定」した数値ではありません。しかし、いったん数値化されると、外形上は、品物の値段も物理学の測定値も区別はつきません。その結果、両者はまったく同じ数字として扱われるようになるのです。

 

数字はすべて「数学」のルールに従って動いています。例え出生の経緯があやしく、人間が恣意的に数値化したものだとしても、いったん数字に置き換えたからには、以後は数学の厳密なルールを適用しなければなりません。数字はたったの10個の文字で出来上がっています。「多いか、少ないか」以外には何の意味もありません。水や空気のように透明で普遍的な言語です。この意味のない言語を読んで、どうにかして意味を知ろうとすると、論理的な分析しか方法はありません。その結果、本来合理的ではない人間の活動を、いったん「経済人」という合理だけで動く人間とみなす必要が出てきます。つまり本末が転倒してしまったのです。ウソをついた少年が、現実をウソに合わせようと四苦八苦しているようなものです。

 

物事を抽象化すると必ずこのような問題が発生します。人びとは、具体的な物事を抽象的なものに「置き換えた」後で、置き換えたことを忘れてしまいます。そして抽象化した「記号」だけが一人歩きを始めます。インド人は数学が得意な民族です。昔から何でも抽象化しなければ気が済まない性癖があるそうです。例えば、仏教には孔雀明王というのがいます。単なる鳥の孔雀が、明王という高い位の仏になって祀られています。彼らが考え出した理屈は以下のとおりです。孔雀はコブラのような毒蛇を平気で食べる。孔雀は解毒作用を持っている。これを抽象化すると、孔雀は悪を消す力を持っている。人間の煩悩を食らって、仏道に成就せしめる功徳がある仏である、という具合になります。

 

孔雀が仏教の仏さまになっても、さしたる支障はないかも知れません。ところが市場経済システムの言語が不適切なものだったとしたら、その副作用もまた計り知れないものがあります。大恐慌を巻き起こし、大戦争の引き金になるかも知れません。もともと人間と数字はまったく異質なものです。似たところは皆無だと言っていいぐらい両者は異なっています。数字は鉄道のレールのように、切れ目なく繋がった「論理の連鎖」で出来上がっています。人間のように、時間や空間を飛び越えて、精神世界をジャンプするような発想が出来ません。どんなに遠回りになっても、数字は一本の線をたどらなければ目的地に到着することができません。

 

東南アジアを旅行したことがある人は、土産物を売っている小さな露店をひやかしたことがあるかも知れません。お店のおばちゃんがハッタリで値段をふっかけてきます。買い手も分かっているので、値切り返します。やりとりを何回か繰り返して、感覚的にこれ位ならいいという所で取引は成立します。いいかげんのように見えますが、株式市場でも為替市場でも原理は同じです。市場価格は人間の感性で決まります。欲望や衝動、恐怖やパニックで、価格は大きく変動します。ところが「お金」のシステムは切れ目のない論理の連鎖で繋がった一本の線です。突然ジャンプしたり、大きく滑落したりすると、電話線が切れたように機能しなくなります。ビジネスの言語である数字が意味を失い、経済は麻痺し、最悪の場合は社会そのものが崩壊します。

 

このように考えてくると、近代の社会システムはその前提条件そのものに問題があるようです。数字を物質世界に適用することで、我々は大きな成果を上げてきました。数学の進歩に歩調を合わせ、物理学や科学技術の発展は現代の豊かな文明社会を築き上げました。しかしそれを精神世界にも適用することは誤りです。人間という精神世界を持った生き物は、数字の単純さには耐えられないのです。資本主義は経済的には大きな成功を収めました。しかし「お金」で組み立てられたデジタルな社会は、コミュニティーとしての社会にはなりえません。均質で透明な数字の世界は、人間の感性とはあまりにかけ離れたものだからです。

 

現代人は哲学には無関心です。経済活動を数字に置き換えることの可否といった本質的な問題については、ほとんど反省しません。そしていったん数値化されると、経済活動は数学の問題に置き換えられてしまいます。お金に高等数学を適用して金融工学などというものまで出現しました。東南アジアの露店のおばちゃんと高等数学が何の関係もないのは、ちょっと常識を働かせれば誰でも分かることです。人類は物事を抽象化することにより、多くの便益を受けてきました。しかし抽象化したという事実を忘れてしまうと、本物と影とを混同してしまいます。カゲを動かせば本物も動くと勘違いしてしまいます。そしてそれが不可能だと分かった時、社会はパニックに陥るのです。

 

私は経理マンとして数字に焦点を当てて現代社会の問題点を考察してみました。しかしドラッカーは、同じことを「言葉」に焦点を当てて考察しています。数字と同じく、言葉が原因で社会が崩壊することがあるのです。「経済人の終わり」の中で、ドラッカーは興味深い記述をしています。少し長くなりますが以下に引用してみます。

 

もし今日の時代を、歴史的な俯瞰において、すなわち歴史の継続性の視点からみるならば、新しい秩序が必ずや出現するであろうことは自信をもっていえる。西洋において歴史の断絶があったのは、今が初めてではない。すでに社会の秩序は、13世紀と16世紀の二度、崩壊している。しかも、そのいずれの時代においても、歴史の継続や新しい秩序の出現は誰の目にも見えていなかった。いずれの場合も、秩序の崩壊は今日と同じように人間観の崩壊に起因していた。13世紀には「宗教人」なる概念の崩壊があり、16世紀には「知性人」なる概念の崩壊があった。それらの概念は、まさにそれが社会の中心に位置づけていた領域において、自由と平等を実現できなかったとき、崩壊した。今日と同じように、それらの人間観を基盤とする社会が同時に崩壊した。しかもそれは、それぞれの社会が完成の域に達したかに思われたときだった。すなわち、中世初期の神聖ローマ帝国であり、清教徒の聖職者社会だった。断絶の時代には、他にも似たことが起こっている。マルクス社会主義と今日の「経済人」の社会との関係は、カルヴァン主義と「知性人」の社会との関係に似ている。いずれも自らの教義を決定版と称した。いずれも、自由と平等は現実の自由を放棄するときにのみ可能だとした。マルクス主義が説く階級対立の歴史的帰結は、カルヴァン主義の予定説と軌を一にする。いずれも、来るべき社会における自由の実現のために、今日の現実の自由を否定した。そしていずれも、自由のない社会しか実現できないことが明らかになったとき、その信条が崩壊した。 P.232

 

旧い秩序が崩壊し、新しい秩序が出現するまでの転換期の時代は、まさに今日のように混沌、恐慌、迫害、全体主義の時代とならざるをえない。あの頃も、終末が到来し、新しい展開はありえないと考えられた。しかし突然、いずこからともなく、新しい秩序が現れ、悪夢は、あたかも元々存在していなかったかのように消えた。ダンテは、ギベリン派が支持する皇帝の死とともに、生きる甲斐のあるものすべてが消えたと考えた。ところが、わずか一世紀後には、彼の蒔いた種がルネッサンスとして花開いた。30年戦争のさ中、魔女狩りと異端尋問の恐怖の渦中にあって、ケプラーが死んだとき、社会には絶望しかなかった。しかし当時すでに、デカルトやイギリスの政治哲学者が、新しい「経済人」の社会と新しい秩序の基礎を築いていた。「経済人」の社会が崩壊したあとに現れる新しい社会もまた、自由と平等を実現しようとすることになる。その未来の秩序において、人間の本性のいかなる領域が社会の中心に位置づけられることになるかはわからない。しかし、それは経済の領域ではない。ところがこのことは、その新しい秩序が経済的な平等を実現できるということを意味する。ヨーロッパの秩序が、キリスト教を基盤とするがゆえに自由と平等を追及せざるをえないとすれば、新しい秩序は、当然のこととして、それが社会の中心に位置づける領域において自由と平等を追及する。そのとき、その領域における自由と平等は、その場で実現されるのではなく、たんに追及されるにすぎない。その実現は、次の新しい領域が社会の中心に位置づけられたとき、はじめて可能となる。このようにして、宗教が社会の基盤でなくなったとき、初めて宗教上の自由と平等が実現された。経済が社会的な認知と満足の基盤となったとき、初めて民主的な自由と平等が可能となった。同じように、経済的な平等は、それが社会にとって最も重要なことではなくなり、新しい領域における自由と平等が新しい秩序のもたらす約束となったとき、初めて可能となる。P.233

 

「宗教人」を目指した社会が崩壊したら、次に「知性人」の社会を目指す。これも駄目だとわかると、人々を「経済人」の社会に駆り立てる。マルクス主義の失敗で「経済人」の社会が崩壊すると、また何かを目指さなければならない。しかも旧い秩序が崩壊し、新しい秩序が出現するまでの転換期の時代には、混沌、恐慌、迫害、全体主義の時代とならざるをえないと言う。とすると現在の世界も過渡期の混乱の時代に相当するのだろうか。やれやれ、人間という動物は、いやヨーロッパ人というキリスト教徒は、つくづく因果なものだと思う。どうしてこんな風に次から次へと自由とか平等とかを目指さなければならないのだろうか。まるで強迫観念に取りつかれた亡者みたいに。人間はもっと「おおらか」な気持ちになれないものだろうか。

 

そもそも「宗教人」も「知性人」も「経済人」も人間が考え出した虚構です。近代社会は虚構で作り上げられた壮大なゲームの世界です。このゲームのネットワークは今や地球上を覆い尽くしています。何億・何十億という人々がこのゲームに参加することにより日々の生活の糧を得ています。目に見えないので全容をつかみにくいですが、この市場経済のネットワークはおそらく万里の長城やピラミッドの何万倍・何十万倍という規模に膨れ上がっています。これは人類が構築した最大の建造物と言うことができます。

 

この市場経済システムは最初に西ヨーロッパに出現し、試行錯誤を経て徐々に今の形になってきました。このネットワークを作り上げるのに人類は数百年の歳月を要しています。ピラミッドを積み上げるように、人間を組み立てるのは容易な作業ではありません。先祖伝来の土地にしがみつく農民を、土地から引きはがし、市場経済システムに組み込まなくてはなりません。力ずくによる強制も必要だったでしょう。時には血を流す暴力も振るわれたかも知れません。近代化の歴史は戦争の歴史でもありました。しかし力による強制だけでは、精密機械のようにオートマチックに動く経済社会を構築することは不可能です。

 

人間は動物であると同時に、精神世界の住人でもあります。「その気」にさえなれば、放っておいても人は勝手に動きます。だから人間を動かすためには、「その気」にさせるのが一番です。「自由で平等」な社会のためだとか、「階級のない」社会を実現するためだとか、「言葉」による標語で人は社会に引き付けられるものです。ところが「自由」も「平等」も言葉による抽象的な概念です。実際の世界にはそんなものは存在しません。ここにも抽象化に伴う落とし穴が潜んでいます。人間は現実の世界を言葉という抽象的な記号に置き換えます。そして置き換えた後で、置き換えたことを忘れてしまいます。そして言葉という記号が、あたかも実体があるもののように一人歩きを始めるのです。

 

人間にとって、精神世界とは言葉の世界です。人は言葉で物を考えます。言葉によって喜び、言葉によって怒り、言葉によって失望します。つまり人は現実の世界とはかかわりなく、抽象的に物を考え、抽象的に笑い、抽象的に悲しむことができます。さんさんと降り注ぐ太陽のもとでも、人は抽象的な世界で絶望することがあるのです。これはアダムとイヴが知恵のリンゴの実を食べたときからの、人類の宿命ともいえます。人は神が支配する本能の世界と決別し、言葉による独自のデータベースを構築しました。人間の幸不幸はすべてここからスタートしているのです。

 

われわれは今さら言葉をなくすことはできません。高度な数学や科学技術を放棄することもできません。電気やガスや、自動車やパソコンや、テレビやウォシュレットの、便利で快適な生活を手放すことは不可能です。しかし心の片隅に、これらの物すべては「虚構」の上に成り立っているのだということを覚えておいて欲しいと思います。本物の世界はどこかに厳然として存在しており、人間を含むすべての宇宙を支配しているのだということを。

 

言葉や文字や数字は、人間が混沌とした宇宙を理解するための道具です。変化してやまない自然を文字や数字に「置き換える」と、自然は紙の上で静止します。時間が止まった自然は、じっくりと観察することが可能になります。やがて科学者は自然を支配する「法則」を発見しました。法則を使えば、自然をコントロールすることもできます。人間は狂喜し、自分は神と肩を並べたとさえ己惚れるようになったのです。

 

人は自分の最も得意な分野で失敗するものです。人類は「抽象化」で大成功を収めました。言葉や文字や数字という道具を駆使し、高度な文明社会を築き上げてきました。しかし道具は使いこなすものであり、道具に使われてはならないのです。ところが今や道具がのさばり、主人のような顔をしています。人びとは言葉の顔色をうかがい、重箱の隅を突っつくように言葉の切れ端に目くじらを立てるようになりました。「侵略」だとか「進出」だとか、「わが軍」という言い方は「平和憲法」に反するとか、実体のない議論に時間を空費して、恬として恥じないのです。これは「抽象化」や「置き換え」の文化の副作用であり、社会の末期症状とも言えます。

 

「経済人」の社会が破綻して久しい。人間を論理の連鎖でつなぐことには限界が見えてきました。ドラッカーに言わせれば、次に人間のどの領域を社会の中心に据えるかはまだ分からないと言います。それまでは混沌とした不安定な時代が続くのです。やれやれ、我々は言葉が多すぎるのではなかろうか。「宗教人」も「知性人」も「経済人」も、紙の上に描いた餅です。それは時間が静止した、「死んだ」世界です。ところが実際の人間は生きており、生命は生々流転して止まない。動的な実際の世界と、静的な社会の信条との間に乖離が生ずるのは当然です。私はそろそろ人類は、抽象化の虚構の世界から抜け出すべきときが来ているのではないかと思います。

 

私はこの言葉の氾濫した混沌の時代から抜け出すために、日本の果たす役割が大きくなる時代が必ず来ると思います。西欧諸国はこの文明の元凶であり、ここから抜け出す発想は持ち合わせていません。BRICsと呼ばれる新興国は、今まさに経済成長に乗り出した段階です。市場経済システムを構築している不安定な状況で、他のことを考える余裕などありません。資本主義以前の段階にある他の国々は論外です。こう考えてくると、日本はユニークな立場にいます。明治維新以来150年で急速に近代化を成し遂げた唯一の非西欧の国です。成熟し安定した近代社会であると同時に、原始の記憶を多分に残している世界の「変わり者」です。

 

日本はユーラシア大陸の東の端に、「吹き溜まり」のように位置する島国です。大陸の戦乱や、飢饉や、気候変動から逃れてきた人々は、この吹き溜まりで行き止まり、そこに留まりました。太平洋の南からはポリネシア系の人々やマレー系の人々や古代インド系の人々がやって来ました。大陸の沿岸や朝鮮半島を伝わって、南中国系やモンゴル系やツングース系の人々がこの列島に移り住んできました。アメリカ合衆国ができるはるか以前に、日本はすでに「人種のるつぼ」と化していたのです。

 

「吹き溜まり」の底には古い落ち葉もそのまま残っています。日本列島には何千年・何万年前の記憶が、古い落ち葉のように残っています。日本人はエスキモーのように、魚を生のままで食べます。火で料理することを覚えるはるか以前の原始人の記憶を、21世紀の現在も大切に守っています。八百万の神々は、ニューギニアの高地人やアフリカの土人と同じく、いまだに日本人の心を捉えています。大陸では戦乱でとっくに焼失した高度な仏教美術が、奈良や京都の古都の寺院に鮮やかに残されています。何百年前に建てられた寺院は今でも「現役」で機能しています。日本人は新しい文化を取り入れながら、古い記憶を残す名人なのです。

 

戦後70年の節目の年に安倍総理がどのような談話を出すのでしょうか。日本人は戦争の責任を一部の指導者のせいにはしません。もし責任があるとすれば、自分たち国民全員になんらかの責任があると考える稀有な民族です。言葉や論理に囚われないで、物事の本質を見抜く感性がこの民族にはまだ残されています。新しい社会の秩序は、口角泡を飛ばす議論の中からは生まれてこないと思います。人びとは禅僧のように言葉を慎み、はるか昔に決別した無意識の世界の記憶をもう一度呼び起こす必要があると思います。来るべき社会がどのようなものになるのか不明ですが、人間に優しい、自然との調和を目指す社会であって欲しいと思います。ドラッカーは18世紀に「経済人」という新しい秩序が誕生する際のいきさつについて以下のように述べています。

 

全体主義の脅威に対抗するための唯一の方策は、われわれ自身の社会に新しい基本的な力を呼び起こすことである。もちろん、そのような力は簡単に呼び起こせるものではない。新しい秩序を簡単に生み出すことのできる方法はない。そのような力が社会に潜んでいることさえいかに知りえないかは、フランス革命時のイギリスをみれば明らかである。フランス革命の直前の時代、イギリスはすでに崩壊同然だった。アメリカという最大の植民地を失ったところだった。社会そのものが、議会や政府と同じように腐敗しきっていた。あらゆる階級が王室を嫌っていた。下層階級は、当時始まったばかりの産業革命に抵抗していた。工業も商業も破産同然だった。これらの腐敗の底にイギリスの力が健全であることを確信していたエドマンド・バーク唯一人を例外として、あらゆる者が革命を望んでいた。これに対して、戦いに勝ちつづけ、フリードリッヒ大王による強力な産業政策をもつプロシアが、最強の国内基盤を誇っていた。ところが、ヨーロッパでは、イギリスだけがもちこたえ、プロシアは紙の家のように崩れた。二十年にわたるナポレオンとの苦しい戦争を戦いつつ、十八世紀を引き継ぐものとしての新しい十九世紀社会を発展させたのはイギリスだった。その結果イギリスは、その後100年にわたって、世界一の大国の座を占め、全世界の範となり、思いもかけぬ経済発展と領土拡大を手にした。たしかに、イギリスが対抗しえず、社会的、精神的に崩壊していたとしても、やがてはナポレオンの帝国は分裂していたであろう。しかし、もしイギリスに民主主義という新しい力の伸長がなかったならば、ナポレオンの失墜やその死後においてさえ、ヨーロッパは彼の麾下の将軍たちの恰好の蹴鞠とされ、二十年あるいは三十年は、戦闘、貧困、窮乏、迫害の舞台とされていたに違いない。  P.258

 

2015/05/05

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