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高齢化社会と認知症

ピーター・ドラッカーの欠点は難しいことを易しく書きすぎることだと言われている。彼は既に変化が現実に起こっていて、誰でも日常目にしているにもかかわらず、その意味や重要性に気づかずに見過ごされているような事象を、時間的・空間的に俯瞰して平易に説明してみせる。それはあたかも蟻のように忙しく地上を動き回っている人間が、スカイツリーの上から豆粒のように小さな自分の生活空間を確認したときの驚きのようなものである。だからドラッカーに言われてみれば、誰でも「なるほど!」と納得することになるのである。

 

例えば現在われわれが直面している高齢化社会がその一つの例である。高齢化社会の到来そのものは誰でも予測できた。なぜなら老人は生まれたときから老人だったわけではなく、誰でも最初は赤ん坊からスタートするからである。第二次大戦が終わって世界中にベビーブームの波が押し寄せたとき、60年後70年後に大量の老人が発生するだろうということは誰でも予測できた。しかもその後の経済成長と歩調を合わせるかのように、今度は逆に先進諸国の出生率の低下が始まった。大量の老人と若年層の減少という、かつて人類が経験したことのない未曾有の人口構造の変化が起こった。しかしその変化が社会に与える影響について本気で考える人間は誰もいなかったのである(ドラッカーを除いては)。

 

ドラッカーただ一人だけはこの人口構造の変化を見過ごさなかった。彼はこの変化を深刻に受け止めていた。既に40年も50年も前に、彼は「既に起こった未来」としての高齢化社会の問題点について深く洞察していた。高齢化社会が政治に与える影響、経済構造の変化、移民や雇用の問題、社会保障制度、特に年金制度改革等々について彼はその著作の中で具体的に言及している。そしてそれらの指摘がいまや現実のものとなって、徐々に我々の眼前にその姿を現しつつある。

 

例えば現在の年金制度は130年前ドイツのビスマルクが共産主義に対抗して創設したものである。それは現在働いている現役世代の拠出で老人を支えるという考え方が基本になっている。ビスマルクの時代の平均寿命は50歳にも満たなかったであろう。働く者のほとんどが肉体労働者であり、知識労働者などという言葉はまだ存在していなかった。毎日の激しい労働で、人びとは40歳になればもう体がガタガタになって引退した。年金をもらえるまで生き延びる老人は希だったのである。

 

現在の我が国の平均寿命は男女共80歳を超えている。65歳で年金をもらう老人はもはや当たり前の世の中である。ところがその老人を支える若者の数は減少している。団塊の世代が75歳以上になる2025年には65歳以上の高齢者は3700万人に達し、これは国民の3.3人に1人に相当する。75歳以上の老人は2200万人で5.6人に1人が後期高齢者となる。ビスマルクの時代に何百人という現役世代が一人の老人を支えた年金制度は、数名の現役世代で一人の老人を支えなければならない時代となる。この制度が破綻していることは小学生の算数でも分かる理屈である。

 

人口予測の試みは権威ある研究機関において過去幾度となく行われてきた。しかしそれらの予測のほとんどが的外れだったことが明らかになっている。つまりある社会的状況下で人口が急激に増加したり、逆に減少したりする原因は明らかではないのである。人間の集団としての社会の現象は、数学の問題を解くように明晰に割り切れるものではなく、何かしら人知を超えた力によってコントロールされていると考えるのが穏当なのかも知れない。

 

考えてみればこれはごく当たり前の考え方である。太古の昔からわれわれの先人達はみなそのようにして自分の住むこの世界を理解してきた。人間は自分の分際をよくわきまえていたのである。この地球上で人間がいちばん偉いなどと考える者はいなかった。ただここ数百年来の急激な経済成長と、それに伴う社会の変化が、人びとのものの考え方を変えてしまった。科学万能の時代が到来したのである。「科学的」ということと「正しい」ということが同じ意味になった。この世の中のことは何でも科学的に説明できるし、そうしなければ誰も納得しないと自惚れるようになった。

 

自然現象と同じく、人間やその社会の変化は事前になんの説明もなく、理不尽で唐突に現れる。社会の中に生息する人間は、最初はその変化に気づかないか、気がついてもそれが何を意味するのか理解できない。通常40年か50年後になって、この変化を体系的に説明する人間が現れる。そしてこの変化に対して産業革命とか資本主義とか、民主主義とか市場経済とか、社会主義とかマルクス主義とか名前をつける。名前をつけた後で、名前をつけたことを忘れてしまう。そして名前というレッテルが一人歩きを始めるのである。人びとは紙の上に書かれた世界が本当の世界だと錯覚するようになる。特にインテリとかリベラルとか呼ばれる読書人たちは、現実の世界は紙の上に書かれたストーリーのように動かなくてはならないと思い込むようになる。そして現実の世界の出来事に対して「それは民主的ではない」とか「それは差別的だ」とか「それは国民の権利だ」などと抽象的な発言をするようになる。

 

先ず理不尽で不可解な現実が先にあり、人間はそれを説明するために言葉や文字を使うのである。言葉や文字が先にあって現実がそれに随伴して動いている訳ではない。実在するのは現実の世界だけであり、紙の上の文字はその影のような架空の世界である。人間が歩けば影も付き従って動く。しかし影を操作して生身の人間を動かすことはできないのである。

 

例えば「民主主義」というレッテルほどよく普及しているものはない。「民主的」ということは無条件に「正しい」ことだとされている。逆に民主的でないというレッテルを貼られると問答無用で攻撃の的となる。本当だろうか。そもそも民主主義という言葉自体が、近代化した西ヨーロッパ社会の流動的で複雑で混沌とした状況を説明するために貼り付けた一つの抽象的な概念である。ところがいったん名前が付けられると、もう名前が一人歩きを始める。民主化すれば近代化する、民主化こそ国が発展するカギだと思い込む。これは本末転倒である。西欧諸国は産業の近代化を推し進め、効率を追求した結果、民主的な制度が出来上がったのである。近代化が先で、民主化はその結果である。民主化すれば自動的に近代化するわけではない。自給自足の農民が大半を占める発展途上国をムリヤリ民主化すれば、その末路は悲惨なものとなる。後に残されたものは、混乱と破壊と貧困でしかない。

 

このことは逆に言えば、人間の思想や行動がいかに言葉に依存しているかということをよく物語っている。言葉こそは人間そのものである。人間は生々流転して止まない宇宙を一たん言葉に置き換えることにより、事物を抽象的に捕らえる方法を学んだ。混沌とした世界は言葉に置き換えることにより細分化され、一つの断片に切り取ることができる。咀嚼し、理解し、飲み込み易くなる。そして何よりも、それは記号化され客観化されて、交換が可能になったのである。人々は言葉を交わすことにより、情報を共有化することができるようになった。現代の文明社会は、抽象的な文字情報によって出来上がっている。(認知症や何かの原因で)言葉を破壊された人間は、社会との絆を断ち切られる。人間は社会の中でしか生きられない動物である。社会から切り離された人間は、もはや自力で生きていくことさえ困難となる。

 

先日NHKのテレビで認知症の番組をやっていた。団塊の世代が後期高齢者になる2025年には、認知症の患者数は1300万人に達するとのことである。これは国民全体の10人に1人に相当し、65歳以上に限れば3人に1人が認知症という勘定になるそうだ。にわかには信じ難い数字である。2025年といえばそんなに遠い将来のことではない。自分の家族や隣近所に1人や2人の認知症患者がいてもおかしくはない時代が目と鼻の先に来ているのである。認知症はもはや他人事ではなく、郵便ポストやコンビニのように身近な存在となる。そして認知症には介護という未知な仕事がついて回ってくる。誰かが(多分家族が)、この困難な仕事を担わなければならなくなるだろう。1300万人の認知症患者の陰には、ほぼそれと同数の人間が介護に動員されることになる。その結果就労人口はますます減少してくる。こんな未曾有の人口構造の変化に、核家族化した現代の社会は持ちこたえることが出来るのだろうか。さすがにドラッカーも、膨大な数の認知症患者を抱えた高齢化社会の問題点については何も教えてくれなかった。

 

インターネットで認知症のことを調べるとセルフチェックリストという表が出てきて、いくつかの典型的な症状が列記されている。その中で目を引いたものの一つは、「自分の年齢が分からない」という項目である。自分の生年月日は覚えている、しかし年齢は分からない。なんだか奇妙に感じるかもしれないが、その理屈はこうである。生年月日は固定したものであり、いつまで経っても変わらない。ところが年齢は毎年更新して計算し直さなければならない。認知症患者はこの最新の情報にアップデートする能力が弱いのである。だから毎日変わること、例えば今日の日付とか曜日とか、いま自分はどこにいるのかという質問にはスムーズに答えられない人が多いのだという。

 

もう一つは「同じことを何回も言う」という項目があった。いくつかのパターンの話を一日に何十回も何百回も繰り返すのである。一見すると別に聞き逃しておけばなんの害もなさそうに見える。しかし問題なのは同じ話と言っても、その多くが「疑問型」で発せられることである。「今日は何日?」とか「あなたの体重は何キロ?」とかいう同じ質問を一日に何十回も何百回も、執拗に繰り返すのである。この質問にいちいち答えていると、健常な人間も認知症の患者と同じように、一日に何十回も何百回も同じこと言わされる羽目に陥ることになる。ここが「言葉の病」としての認知症のユニークな点である。言葉を介して、患者から周囲の人間に、苦痛やストレスが伝播するメカニズムが出来上がっているのである。

 

実は一つ目の「最新の情報を更新できない」ということと、二つ目の「同じことを何回も言う」ということとは、根っこが繋がった一つの症状である。例えば「あなたの体重は何キロ?」と聞かれて「64キロだよ」と答えても、認知症患者はその情報を更新できない。だからまた「あなたの体重は何キロ?」と繰り返して聞くのである。つまり情報がインプットされても、それが脳に記録されることはない。ところが不思議なことに認知症患者は、言葉によるアウトプットは立派に出来るのである。「あなたの体重は何キロ?」という患者の言葉自体は、発音の上でも文法の上でも、健常者とまったく変わらない。認知症患者の言葉の特徴は、言葉としての外殻はまったく健常者と変わらないが、その中味が支離滅裂になるという点である。なぜならインプットができずアウトプットだけの機能とは、あたかも耳が聞こえない人間と対話するようなものだからである。何を尋ねても何を説明しても、壁に向かって話すようには跳ね返される。その結果認知症患者は一方的に自分の関心事だけを、独り言や寝言を話すように延々と話し続けることになる。

 

認知症の特徴の一つは、患者自身よりも介護する家族の方がより強く苦痛を感じるという点である。これが肉体の病と精神の病の顕著な違いである。がん患者やリューマチの患者は、痛みを感じるのは患者自身であり家族ではない。もちろん激痛に苦しむ患者を見て、家族の心は痛む。しかしそれはあくまでも間接的なものであり、家族自身が直接的に体に痛みを感じる訳ではない。ところが認知症の場合には、直接的な痛みを感じるのは本人ではなく、患者と接する家族など介護する側の人間である。もちろん患者自身もうすうす何かを察して心を痛めているかも知れない。しかしそれはあくまで周囲の反応を通しての間接的なものである。

 

刑務所の中で囚人に、部屋の隅からバケツに水を汲ませてそれを一方の隅に行って空けさせる。来る日も来る日も、この意味の無い動作を一日中繰り返させると、やがて囚人は発狂するそうである。意味の無いことを延々と繰り返すことに人間は(特に現代人は)耐えることができない。正気の人間に狂気の人間の動作を真似させると、本当の狂人になるのである。人間の心の中はなんと繊細で微妙に出来上がっているのであろうか。認知症の患者から、来る日も来る日も、一方的な妄想を繰り返し聞かされる介護者が発狂するかどうかはわからない。しかし特別な訓練を受けた医療関係者を別にして、普通の知識しか持たない人びとにとっては、それが頭の中を引っかき回されるような耐えがたい苦痛であろうことは想像できる。

 

目にはまぶたがあり、見たくないものを遮断することができる。口を閉じれば災いを避けることもできる。しかし耳の穴は四六時中開きっぱなしである。開けっぱなしの穴から、聞きたくもない言葉が一日中侵入してくる。実はこれこそが言葉と聴覚の基本的な成り立ちなのである。言葉を受け取る聴覚は、無防備にも、常に周囲にオープンに晒されていなければならない。誰かに突然「おはようございます」と声をかけられたら、即座に「いいお天気ですね」と返さなければならない。一日ゆっくり考えて後で返事をするという訳にはいかない。間髪を入れずに言葉を交換しなければ、対話は成立しない。だから我々の聴覚は、嬉しい言葉にも、形式的な言葉にも、邪悪な言葉にも、いつでも無防備に開かれっぱなしなのである。われわれが認知症患者の介護を通して、言葉の毒気に当てられ煩悶する原因はここにある。振り払っても、振り払ってもたかってくるハエのように、妄言や嘘言や暴言が、執拗にまとわりついてくる。ところがわれわれは今のところ、介護をする人間の精神衛生についての有効な対策をほとんど何も持っていない。

 

以上のことを簡単に整理してみよう。認知症患者はインプット機能(情報更新機能)が破壊されているが、アウトプット機能(言葉)は依然として健在である。これは言葉の公共性という観点からは、はなはだ厄介な問題を引き起こすことになる。なぜなら言葉というものはコミュニケーションの道具として、必然的にその音声の外形が一定の条件さえ満たしていれば、誰にでもオープンに開かれているからである。そのような自由な空間に、あたかも全体主義国家のように、その外殻だけは維持し中味は狂気を含んだウィルスが紛れ込んだら、社会のソフトウェアは大混乱に陥ることになる。言葉を破壊された認知症患者は、今度はその破壊された言葉を介して、(意図せず)健常者の精神世界を破壊することになる。人間にとって便利な道具であるはずの言葉が、副作用のように人びとを苦しめる。高齢化社会は、政治や財政の面からだけでなく、言葉という社会の内部からも崩壊の危機に立たされることになるのである。

 

物理学はロケットで人間を月に運ぶほどに進歩した。しかし科学は人間の心の問題にはきわめて冷淡である。高度な医療機器が難しい病気の診断を容易にし、今まで出来なかった病気の治療が可能になった。医療が進歩して長生きする人間が増えたこと自体は喜ばしいことである。しかし長生きすることが、必ずしも幸せに繋がっているとは限らない。認知症の本人にとっても、家族にとっても、長生きすることが地獄の苦しみであってはならない。我々は肉体だけでなく、精神的にもおだやかな老後を送りたいものである。科学的には「正しい」ことと「間違った」ことがハッキリと識別できる。同じように精神の世界にも「正しい」ことと「間違った」ことが必ず存在するはずである。そして人びとの心の中から、邪悪なものを排除する方策がきっと見いだせるはずである。物質世界の研究に日々投入される膨大な資源のほんの一部でも精神世界の探求に向けられ、心と言葉の神秘のヴェールが少しずつ剥がされていくことを切に望むものである。

(2017/08/15)

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