« 国民総幸福量(GNH) | トップページ | 抽象化のワナ »

料理の楽しみ

ひょんなことから料理を始めた。料理といってもせいぜいカレーやパスタを作る程度のものだが、やり始めるとこれがなかなか面白いということが分かった。

最近では週末になると料理の真似事をするのを密かな楽しみにしている。生の野菜や肉を切り刻んで鍋の中に放り込む。やがてグツグツと音を立て始めると辺りに食べ物のニオイが漂よってくる。味はともかくとして、何かが出来上がりつつあるようだ。私は初めてのお使いをした幼児のように、この瞬間に小さな達成感を感じるのである。

 

人は毎日三度三度、食べて生きている。料理なんか誰でもやっているし、珍しくもなんともない。自分から進んでやらなくても、何かの状況で料理をしなければならなくなった経験は誰でも持っているだろう。それは顔を洗ったり歯を磨いたりするのと同じくらい日常的な動作である。だから古希を目前にした男が初めて料理をしたということの方が、むしろ珍事と言うべきかも知れない。

 

こう考えると私の一生というものが、いかに生活感が希薄だったかということでもある。学生時代や、決して短くはなかった独身時代をとおして、私は長い間一人暮らしをした。簡単な料理を作る機会はいくらでもあったはずである。結婚してからでも、家内が寝込んだ時など私が料理をすべき場面は幾度かあった。しかし私は(薄情にも)がんとして料理をしなかった。それは男がスカートを穿かないのと同じぐらいに、自分が台所に立つことなど思いもよらないことだったのである。

 

何度もタバコを止めようとしてもどうしても止められない男が、何かの拍子ですんなりと禁煙に成功したりする。私はある日インターネットで何気なく料理のレシピを眺めていた。それは写真付きで、材料はアレとコレ、作り方はイチ、ニ、サンといった具合でいたってシンプルである。やれ包丁の持ち方がどうだとか、材料の切り方はこうだとか、料理学校で教えるようなことは一切書いてない。この簡潔さは読む者に「これなら俺でも出来そうだ」という気分にさせる。そして私もその気になったという次第である。

 

よく切れる包丁で野菜を切る時の感触はいいものである。タマネギやキャベツの何層にも覆われた葉皮を、ザクッと切るときの気分は爽快である。ナスを切る時はまるでスポンジでも切るように愉快だ。ニンニクは小さいくせにチーズみたいに弾力がある。包丁の刃先で薄く、丁寧に千切りにしていく。細かい作業は神経を集中させなければならない。

 

私が今頃になって料理に興味を持った背景には、40年間も経理という抽象的な仕事をしてきたことと関係があるのかも知れない。経理と料理は対照的な世界である。経理は数字を扱う。数字はたったの10個の文字で出来上がっていて、「多いか、少ないか」以外には何の意味も持たない言語である。それは無色・無臭で空気のように透明な世界である。40年も経理をやっていると、そのうち自分が透明人間になりはしないかと思うことがある。

 

ところが料理は五感のすべてを動員する具体的な世界である。目で見て、手で触り、ニオイを嗅ぎ、舌で味わうことができる。包丁で指を切ることもあるし、熱い鍋でヤケドをすることもある。ウマイかマズイか、結果は子供にも分かる。数字の分析のような屁理屈は通用しない。何よりも「食べる」ということは「生きる」ということである。そして「生き物」を扱うことこそ、「数字」が最も苦手としている分野である。

 

私の料理はまったくの自己流だから、一風変わったところがある。例えば料理している最中に一切「味見」をしない。否、しないと言うよりは出来ないと言った方が適切かもしれない。私は味見をすると迷いが生ずる。味が濃いのか薄いのかさっぱり判断がつかない。調味料を足したり水を足したりして最終的には悲惨な結果になる。だから私は味覚でなく視覚で料理することにしている。料理する前にすべての材料と調味料を目の前に順番どおりに並べておく。あとはその順番どおりに材料を鍋に放り込んでいくだけある。

 

私はじっくりと時間をかけて、様々な野菜や肉を煮込むシチュー系の料理が得意である。得意と言うよりも今のところそれしか出来ない。逆に言うと、包丁さばきの巧緻がハッキリと跡に残るような和食系の料理は苦手である。一度アジを三枚におろそうとして失敗したことがある。皮がうまく剥がせないでアチコチを押さえつけたので、くたびれた挽肉みたいな刺身になった。

 

タマネギやキャベツ、トマトにジャガイモ、カボチャにインゲン、キューリでもナスでも、およそ冷蔵庫に残っている野菜は何でも構わない。どうせ煮込めばもとの形は残らないから、適当にザックリと包丁を入れる。これらの野菜を一時間も二時間もトロトロになるまで煮込むのである。野菜のエキスが滲み出てきて、いいスープが出来上がる。これだけでは物足りないと思ったら、ベーコンや牛肉なども放り込むとコクが出てくる。できれば黒毛和牛のシチュー用のぶつ切りを200グラム位入れると格段においしくなる。

 

野菜スープを作りながら考えた。私が今作っている洋風の煮物と、子供のころから慣れ親しんだいわゆる和風の「煮っ転がし」との違いについてである。洋風の煮物は野菜から出たエキスのハーモニーが味の決め手となる。ところが和風の煮物は逆に野菜にダシをしみ込ませる。タケノコでもシイタケでも、ジャガイモやダイコンでも、魚や肉を使う場合でも、およそすべての和風の煮物は材料にダシをしみ込ませて作る。

 

別の見方をすれば、和風の煮物は材料の外形をそのまま残すことにこだわる料理である。タケノコの煮物は誰が見ても竹の子と分かる。ブリもダイコンもお互いに寄り添って並んでいる。ジャガイモなどは煮崩れを防ぐべく、細心の注意が求められる。外形を維持しようとすれば、当然のことながら味のエキスは閉じ込められたままである。そこで物足りなくなった分はダシをしみ込ませたり、砂糖とショーユでアクセントを付けたりする必要が出てくる。

 

洋風の煮物を味のシンフォニーとすれば、さしずめ和風の煮物は邦楽に例えられるかも知れない。それらは三味線にしても琴にしても、尺八や笛や太鼓にしても、音がお互いに混じり合うということはない。たくさんの三味線や琴が同時に演奏することはある。しかしそれらは同じ旋律を皆で調子をそろえて合奏しているに過ぎない。バイオリンやクラリネットやトランペットの音が混じり合って、まったく別の音のシンフォニーを作り出すのとは根本的に異なる。

 

私は終戦直後の伊豆の小さな漁村で育った。自給自足の食材は鮮度だけは申し分なかった。毎朝父親が定置網で採ってきた魚は、最初はサシミにして食べ、次に焼いて食べ、最後は煮て食べた。弁当のおかずはヒモノと決まっていた。裏の畑でキューリやナスやトマトをもいでくるのは私の毎朝の日課だった。家のニワトリが産んだタマゴは、生のままご飯にかけて食べた。大潮の日に磯で採ってきた貝や海藻の味噌汁は潮の香がした。

 

それは何百年も昔から変わらぬ、素朴で原始的な食事だった。新鮮なものはなるべく生のままで食べる。調味料はごく限られたものしか使わず、手の込んだ調理などしない。まるでエスキモーのようなその食べ方は、我々が遠い祖先の野生の味覚を忘れまいとする儀式のようだ。この極東の島国では、吹き溜まりに積もった古い落ち葉のように、太古の先人の魂が脈々と受け継がれてきたのである。

 

和食とは日本人の伝統文化である。それは自給自足による新鮮な素材が手に入ることを前提としたシステムである。だからスーパーマーケットで原産国や賞味期限を確かめながら日々の食材を手にする現代人には、もはや維持していくのは難しい習慣なのかも知れない。子供たちがカレーやハンバーグに飛びつくのも無理からぬ話なのである。

 

しかし私はいつの日にかまた、日本人は必ずや和食を取り戻す日が来るのではないかという予感がする。行き過ぎた市場経済はきっと正されるに違いない。それは近代的な装いと古い伝統が両立している千年の都である京都を見た時に感ずる何者かである。それは日本中のいたるところで、祭りや伝統芸能が名もなき人々によって脈々と受け継がれていくのと同じ力である。

 

ユーラシア大陸の行き止まりに位置するこの列島には、古来より「集団的な記憶」とも呼ぶべき強力な磁場が張り巡らされているのである。この島国に生まれた人々は(意識するとしないとにかかわらず)、この伝統の力に踊らされてきたのである。我らの祖先たちはこの記憶装置を通って、いつでもこの世に現れては皆と一緒に食事をし、歌い踊り、祈りに加わるのである。

(2014/08/15)

|

« 国民総幸福量(GNH) | トップページ | 抽象化のワナ »

「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/409796/57156927

この記事へのトラックバック一覧です: 料理の楽しみ:

« 国民総幸福量(GNH) | トップページ | 抽象化のワナ »