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国民総幸福量(GNH)

新婚ほやほやのブータンの国王夫妻が来日した。アントニオ・猪木を端正にしたような横顔の国王が、かすりの着物みたいな民族衣装を着た姿に、なんとなく親しみを感じた人も多かったのではなかろうか。私はそれまでブータンについてほとんど何も知らなかった。九州ぐらいの面積のヒマラヤの小国だとテレビが紹介していた。富士山のてっぺんのような高地に、いまだに電気も通っていない村々が点在している。人々は山の斜面を切り開いたわずかな畑を耕し、ヤギを飼って、何百年も変らぬ自給自足の生活を営んでいる。どこの村にも子供たちがたくさんいて、カメラの前に群がってくる。青空に浮かぶ白い雲と、底抜けに明るい子どもたちの笑顔が印象的だった。

ブータンを世界的に有名にしたのは国民総幸福量(GNH)という変った名前の指標である。経済的な指標であるGNP(国民総生産量)ではブータンは世界の最貧国の一つだが、国民の幸福度では世界の先進国の一つだというわけである。人間の幸不幸は経済的な豊かさだけで決まるわけではない。コミュニティーの絆や、精神的な豊かさが、人間が生きていく上で不可欠である。なるほど、ブータンの豊かな自然と、人々の素朴な笑顔を見ていると、なんとなく分かるような気がしてくる。

「幸せだ」と感ずるのは、人間のこころの問題である。経済成長とは関係ない。現在のGNPで測定すれば、問題にならないほど貧しかった江戸時代の人びとが不幸だったわけではない。当時の人々だって、もはや現在のわれわれの記憶から消え去ってしまった、さまざまな「幸せ」な時間を持っていたに違いない。どんぐりばかり食べていた縄文人が憂鬱だったわけではない。それどころか、生き生きとして、いつも神様と一緒に暮らしていたのである。人生はさまざまである。だから人の数だけ、さまざまな幸不幸があってよいと思う。

だから私はブータン政府の発想には賛同する。と同時に、なんだか変だな、という違和感もおぼえる。というのは、どうして人の「幸せ」という主観的な心情を数値化するのか、ということである。数値化すれば比較せねばならない。人の幸せと自分の幸せを比較して、どちらのほうがどれだけ幸せだ、などと自慢することになる。現に福井県知事が、福井県のGNHは日本一です、などとブータン国王に報告している。まったくナンセンスな話である。

そもそもブータンが世界に誇る資産とは、もはや先進国で失われつつある精神的な豊かさではなかったのか。ところが一方では経済的な豊かさだけで人間は幸せになれないと言っておきながら、もう一方でその「幸福度」とやらを、経済指標と同じ尺度で比べるという愚を犯している。現代人は、先進国と途上国を問わず、もはや他人と比較しなければ自分の幸せさえ判断できないレベルまで達しているのである。現代社会の心の病は地球上を覆い尽くし、ついにヒマラヤの山中にまで蔓延したか、というのが私の偽らざる実感である。

どうしてこのような混同が生ずるのか。いや、混同していると思っているのは私の方であって、当人たちは混同どころか、大真面目で正しいことをしていると思っているのだろう。なにしろ数値化は大流行だ。マスコミではTPPに賛成の人は何パーセント、消費税に反対の人は何パーセント、内閣の支持率は何パーセントとさかんに報じている。みんな数値化は大好きである。数字に表すと分かりやすい、民主的だ、科学的だ、と思っている。そして、民主的なこと、科学的なことは無条件に正しいことだと信じ込んでいる。だからGNHに賛同する人たちも大勢いるし、これからも増えるだろうし、なんだか世界中に広がる気配さえ感じる。

われわれの身の回りは数字であふれている。人々は毎日マーケットの指標を見て一喜一憂している。株が上がった、為替が下がった、金が高騰した、長期金利が1パーセントを割った、・・・・等々、経済活動は数字という世界共通の言語で語られる。そもそも現代人は「お金」という名前の数字で衣食住をしている。誰でも収入の範囲内で支出を賄わなければならない、というプレッシャーの中で暮らしている。この社会では、生活するということと、計算するということは同じ意味である。人々は次第に数字の論理で行動し、数字のように物を考えるようになる。なんでも数値化するという習慣は、もはやこの社会の文化となっている。

数字はたった十個の文字で出来上がっており、「多いか、少ないか」以外には何の意味も持たない言語である。だから数字に依存する経済は、右肩上がりに成長し続けることを要求される。世界中の経営者や政治家や学者が、口を開ければバカの一つ覚えみたいに、成長、成長、成長、と呪文を唱える。成長を維持するにはどうしたらいいか。成長が止まると失業者があふれ、財政が破綻する、年金が払えない、社会が維持できない。だから、どんなに豊かになっても、さらに上をめざして成長を続けなければならない。それには、もっと人口を増やさなければならないし、移民を受け入れなければならない。しかし、ちょっと考えてみればわかることだが、永遠に続く経済成長などありえない。それはとても不自然なことである。地球は既に悲鳴をあげている。ここまで来ると、誰でも心の片隅で、この世の中は何かがおかしいな、と感じているのではなかろうか。

数字という言語で書かれているのは、物理学や科学や経済学だけではない。健康診断をすると、何十という聞いたこともない数値がずらーっと並んでいる。そして、この数値とこの数値は異常だから、このくすりとこのクスリを毎日飲みなさいと言い渡される。本当だろうか?そもそも人間には数字では測定できない、個人差というものがあるのではなかろうか。現代人はホテルやレストランのランクから降水確率や「幸福度」まで、片っ端から数値化する。そして、自分の住んでいるこの世界そのものも数値化して理解するようになった。例えば、空間とともにこの世界(宇宙)の基本的な構成要素である、「時間」も数字に置き換えて考えるようになった。

グローバルな経済活動を同時化するために、われわれは標準時間帯をつくり、地球を24等分した。そして時間は過去から未来に向けて一直線に流れると考えるようになった。つまり現代人は、過去と未来には、無限の「死んだ」時間が流れていると考える。人間の「生きている」期間は、せいぜい数十年である。生まれてくる前は、死んだ状態だった。そして死んだ後も、永遠に死に続けるのである。人間にとって、生きている時間より、死んでいる時間の方が、圧倒的に長いのだ。生きていることの方が、むしろ異常というべきである。そう考えると、死ぬことはむしろ、自分の故郷へ帰るようなものだ。ところが人々は、死ぬことが「怖い」と言う。何故だろうか。

現代人の死生観の最も顕著な特徴の一つは、「死は怖い」という抜きがたい恐怖感である。この恐怖感は、「時間」を数学的・科学的に捉えることから出てくる固定観念である。科学的な時間は一直線である。自分が死んだ後は、永遠の闇に向かって、ロケットのように進み続けるのである。「ゼロ」と同じく、「無限大」という数学的な発想は、人間の精神状態をひどく不安定なものにしてしまう。

300年前に人間が「科学の奴隷」になる前には、時間は数字で書かれてはいなかった。虎の刻とか丑の刻などと愛嬌のある名前で呼ばれていた。時間は夏と冬とではその長さが違っていたし、短い時間の単位はひどくあいまいなものだった。当時の人は、時間は一直線ではなく、むしろ丸いものだと感じていた。ぐるっと回って、また元に戻ってくる、というイメージを持っていた。丸いビンに沿って歩く昆虫は、ぐるぐると回って、永遠に歩き続けなければならない。同じく、丸い時間の過去と未来は繋がっている。「無限大」の過去の時間と、「無限大」の未来の時間は、その先端が丸く繋がっているのだ。

地球も月も太陽も、丸い天体である。自分自身もグルグル回転しながら、月は地球の周りを、地球は太陽の周りを、回っている。惑星も恒星も衛星も、丸い天体が自転しながら公転している。宇宙は生々流転する「丸い」世界である。

太陽は東から昇り西に沈む。沈んだ太陽はまた明日になれば昇ってきて、ぐるぐると毎日循環していく。月も星も同じである。昨日も今日も明日も同じ時間が循環している。春夏秋冬と季節が巡り、植物が芽を出し、花を咲かせ、実を付けて、一年は循環していく。鳥もカエルも春に卵を産み、サケは同じ川をさかのぼり、季節ごとに渡り鳥は移動していく。

つまり宇宙はすべて循環していると考えた。生命も同じである。生まれたものは死に、死んだものはまた生まれ変わる。あらゆる生命は循環している。この世は仮の世である。この世からあの世に行き、また生まれ変わってこの世に来る。生まれた赤ん坊が、死んだお祖父さんに似ているのは、お祖父さんの生まれ変わりだと考えた。心安らぐ思想である。

ところが「科学」のように、時間が一直線だと考えるとどうだろうか。過去と未来は、反対方向に向かって、「永遠に」進み続けるのである。「死」の状態が、数学上の「無限大」に続くと言う。なんという寂しい思想であろう。それは、丸いビンの上を歩き続ける昆虫のように、「孤独」で「滑稽」な思想である。自分で幽霊を想像して、勝手に怖がるようなものである。

これはもはや現代人の心の病だと私は思う。「数字」という言語に依存した現代社会が、徐々に犯される慢性的な病である。史上例を見ない繁栄の中で、人びとはなんとなく心の中に不安を抱えて生きなければならない。数字は正しく適用すれば、素晴らしい切れ味を示す。物理学や科学技術がその典型である。しかし数字を濫用し、使い方を誤ると、人々の思考力を奪い、目を曇らせ、心を不安定にする。これは人間を対象にした分野に数字を適用した場合に必ず見られる現象である。その典型が、人間の営みである経済活動を、過度に数字に依存した現在の経済システムである。数百年前から、定期的に襲ってくる金融危機とは、人間と数字のアンマッチがもたらす副作用であると言えなくもない。

アンリ・ベルグソンは、もう百年近く昔の人であるが、ノーベル文学賞を受賞した異色の心理学者である。彼は一生をかけて人間の心の問題に取り組んだ。愚直に一つのことだけを追求して、ついに歴史的な大発見をした。精神世界と物質世界の関係というものを突き詰めて、単純化していくと、最終的には人間の記憶という問題に行き当たる。彼は長いあいだ失語症の患者を観察して、ついに人間の肉体(脳)と記憶(精神世界)との間にはなんの関係もないということを証明した。つまり物質世界と精神世界はまったく異質なものであり、科学的な方法(計数的な方法)では解決できないことを明らかにしたのである。

記憶は人間の脳の中には存在しないのである。ではどこにあるのか、と聞くこと自体が無意味な質問だと彼は言う。記憶は、科学的な方法では測定できない、どこか別の次元の世界に厳然と存在しているものである。人間の脳は、その記憶にアクセスする機能だけが備わっている。膨大な記憶(潜在意識)の中から、今生きていくために必要なものだけを選り分けてアクセスしているのである。何かの原因で脳に損傷を受けた患者は、この選別機能がうまく働かずに、記憶がどっと溢れ出てくるのである。

電話帳をまるごと一冊覚えたり、数年先の曜日を瞬時に当てたりする人がいる。このような人は天才ではなく、脳の選別機能がうまく働かなくなり、記憶がどっと溢れ出てくるのである。そのためにいつも頭の中の整理がつかず、混乱していて、通常の社会生活が送れないのである。記憶を消すことは不可能なことである。記憶は、人間の肉体とは別の次元に存在するものである。よく物忘れが激しいなどというが、それは記憶そのものがあいまいになったのではなく、記憶にアクセスする機能がうまく働かなくなっただけのことある。記憶そのものは、決して消せないものなのである。

何かの原因で、生きるという集中力を失った人、例えば山の上から転落したり、銃弾に撃たれたりした人が、ほんの数秒の間に、自分の全生涯の記憶を辿ったという話がある。この場合も異常な事態で、脳のアクセス機能がもはや「生きる」という注意力を失い、記憶がどっと溢れ出てきたのである。

私は若い頃、夢の中で電車の発車のベルの音を聞いた。あまりに生々しく、大きな音だったので目を覚ましたら、枕元で目覚まし時計がジリジリと鳴っていた。しかし私がみた夢は、長いストーリーのある夢だったのである。不思議でならないのは、そのストーリーの結末の電車の発車のベルの音が、目覚まし時計のベルの音と一致していることである。どうして、目覚まし時計が鳴った数秒の間に、どんなに少なく見積もっても数十分はかかると思われる、長い物語を辿ることができたのかということである。「記憶」の世界には「時間」がないようだ。「記憶」の世界は「異次元」の世界なのである。

「現在」という時は存在しない。「今だ」と思った瞬間に過去になってしまう。時間を細分化し、一秒の何千分の一、何万分の一という風に分解していけば、現在などという単位は存在しない。つまり、現在と思っているのは、過去の記憶である。われわれは過去の記憶を呼び覚ますことにより、「現在」を認識しているのである。

「過去」は存在しない。過去は過ぎ去ってしまった時間である。存在するのは現在だけである。しかし、「現在」という時間も存在しない。現在はすでに過去である。時間を一秒の何千分の一、何万分の一と極限まで細分化していけば、「現在」も「過去」も極めてあいまいな概念となる。存在するのは記憶だけである。人間が存在するのは、「記憶」の中だけである。

イチローは動体視力が優れていると言われている。もし人間が「現在」という瞬間に焦点を合わせることができるとすれば、動体視力は100%になるはずである。150キロの速球にもバットを当てることができるはずである。しかし実際には、それは容易なことではない。何故だろうか?それは人間が、過去の記憶を呼び覚ますことにより、「現在」を認識しているからである。動体視力を高めるということは、一秒の何分の一、何十分の一とう単位で、いかに素早く過去の記憶を現在に近づけるかという訓練のことである。

私は高台に建つマンションの4階に住んでいる。そこからは空が近いので、時々ぼんやりと空を行く雲を眺めている。最近気が付いたことだが、雲というのはじつにさまざまな形をしている。そして、時々刻々とその形を変えていく。ほんの数分目を離しただけで、もうすっかり空の様子が変ってしまうことがある。ほんの数秒空から目を離して、再び元にもどすと、もう雲の形が変っていることもある。ところが連続して、じーっと雲を見つめていると、この変化にまったく気づかないのである。私の目には、ただ同じ形をした雲が、大空をゆっくりと西から東へと流れてゆくようにしか見えない。不思議な現象である。

連続してゆっくりと流れる時間や空間の中に身をおくと、周囲の環境や社会の変化は識別しにくい。それはベルグソンが証明したように、われわれの脳は、今生きていくために必要な情報のみを選り分けて識別し、「現在」を認識して、他の情報はシャットアウトしてしまう性質があるからである。人間には聞き取れない高音域や低音域が存在するように、記憶の世界にも、あまりに高速で移動するものや、きわめて低速の変化は識別できないエリアがあるようである。人間の視力や聴力や嗅覚に限界があるように、記憶力にも限界があるのである。アフリカの未開人に視力が3.0とか5.0などという部族がいるように、その時代の生活環境に適応して、視力や聴力や記憶力も異なっていたに違いない。

どこで聞いた話だか忘れてしまったが、ユングだったか誰だったかが、アフリカの土人の前である程度まとまった話をした。するとその土人が、ユングが話し終わる否や、その話の内容を初めから終わりまで一字一句違わずに復唱してみせたという。文字を持たない未開の土人は、頼れるのは自分の記憶だけである。だから、古代人の記憶力は驚嘆すべきものがある、という話だった。これは「記憶」というものを考える上で、大変興味深い話である。

古代のように百年一日のごとく、技術革新などほとんど見られない時代には、非常にゆったりとした時間が流れていたであろう。人類が火の使用を覚えたり、農業を発明したり、馬に乗ることを覚えたり、古代の技術革新は何千年・何万年という長い時間の単位でしか発生しない。だから古代人が記憶の単位を長いスパンに設定していたとしても、彼らの頭にはなんの混乱も生じないであろう。縄文人は自分の親の時代にも、祖父の時代にも、ほとんど同じ生活をしていた。だから突然祖父の時代の記憶がよみがえったとしても、彼は現在とほとんど同じ光景を見ることになる。古代人の記憶を呼び戻す時間の単位は、数年・数十年と非常に長い時間に設定されていたに違いない。アフリカの土人が、数十分程度のユングの話を記憶するのは、そんなに難しいことではなかったはずである。

ところが現代のような変化の激しい時代には、われわれの周囲には、日々大量の情報がものすごいスピードで流れている。もし大都会の真ん中で、記憶のトビラを1日、いや1時間だけ開けっ放しにしただけで、われわれの頭の中はたちまち大混乱におちいるだろう。たぶん情報の整理がつかずに、発狂してしまうだろう。だから現代人の記憶のスパンは非常に短い、多分数秒・数十秒程度の単位に設定されているはずである。情報は(99パーセント以上の情報は)、記憶の網をすり抜けていく。だからわれわれはほとんど何も覚えていない。現代人は、記憶に関しては、まるで痴呆のようである。しかし実際には、「記憶を消す」ことぐらい難しいことはないのである。人類は、99パーセントの記憶を「消し去り」、両目を正面に揃えて並べ、じっと針の穴を通すように一点に記憶を集中させ、複雑で高度な情報を読み取り、文明を築くことに成功したのである。

われわれはほとんど何も覚えていない。数年前の出来事はおろか、二三日前の昼飯に何を食べたかさえろくに覚えていない。まして、自分の少年時代のことなどは、大海にポッポッと浮かぶ小島のように、まだらな記憶しか残っていない。情報は風のように、われわれをすり抜けてゆく。しかしそれと平行するかのように、人類は文字を発明し、映画やビデオやコンピュータを発明した。現代人は、自分は何一つ覚えないで、記憶を書物やテレビやコンピュータに頼るようになった。これらの外部の記憶媒体は、人間の記憶容量を無限大に拡大した。そして、この記憶媒体は何億という人間がシェアできる、人類の共有の財産となった。人類の記憶の性質がまったく変ってしまったのである。

この「記憶」の変質が、人類の能力を飛躍的に高めたと同時に、一方で現代人は祖先から受け継いだ「生き物」としての知恵を失っていった。科学技術は月に人間を運べる程進歩したが、本を読まなければ自分の子どもさえ育てられなくなった。外部の記憶媒体に蓄積した情報は、それ自体では何も生み出さない。古代人と同じように、記憶はいったん人間の頭の中によみがえらせて初めて機能する。だから人々は、膨大な書物や映像やコンピュータ・データの山から、必要な情報だけを選り分けて、もう一度自らの頭の中に記憶をインプットし直さなければならない。それは人類の全歴史を一代で遡る作業であり、途方もなく長い時間がかかる。人類の記憶の遺産のほんの上っ面を学ぶためだけで、人々は青春時代のほとんどを学校で過ごさなければならなくなった。

神様がいるかいないかとか、魂は存在するかしないか、などという暢気なことを言うようになったのも、人類の歴史でたかだかこの300年位のものである。昔から、人間にとっても、あらゆる生き物にとっても、神様がいるなどということは、口にするのもバカバカしいくらい当たり前の話だったのである。それが科学万能の世の中になり、人間が文字や数字やコンピュータ・データで書かれた「人工の情報」にアクセスするようになってから、神様がいなくなったのである。同時に、生き物としてのあらゆる感性も失いつつある。

人間は自分だけ、外界から孤立して存在しているわけではない。われわれは宇宙と一体となった存在である。例えば、人間は空気を呼吸して生きている。一瞬たりとも呼吸を止めるわけにはいかない。人間は、頭の中では偉そうなことを考えても、呼吸などという極めて原始的な動作をしているのである。空気とは、地球上をまんべんなく覆っている物質である。その地球そのもののともいうべき大気を、直接体内に取り込んでいるのだ。そうしなければ一瞬たりとも生きていけないということは、人間も地球の一部だということである。

デカルトの末裔たる科学者は、人間が生きていくためには水や空気や太陽が必要だと説明する。しかし見方を変えれば、生きているのは人間ではなく、水や空気や太陽の方なのだという考え方もできる。水や空気に生命が宿っており、さんさんと降り注ぐ太陽の光の中に英知が宿っているのだ。それが人間の体内に入り込み、われわれは「生かされて」いるのである。人間も、動物も鳥も、植物も水も、空気も石も、あらゆる地球上の生き物は、同一の素から派生しているのである。万物は生成流転すると、インドの聖者は教えている。300年前に人間が科学の奴隷になる前には、常識はそのように考えたのである。人間が一番偉いなどと、大それたことを考える者はいなかった。

人間は自然と一体であるということは、当然自然と会話ができたのである。人間も、動物も鳥も、植物も水も、空気も石も、あらゆる地球上の生き物は同一の情報システムを共有しているのである。そうでなければ、春夏秋冬と調和がとれた自然の営みを説明できない。ただ、人間だけはそのアクセスの方法を忘れてしまったのである。

蟻や蜂はグループ全体で整然と行動する。渡り鳥やサケやクジラは、季節ごとに長い距離を正確に移動する。われわれは、このような能力のことを本能と呼ぶ。そして人間には本能がなくなったという。なぜだろうか。そもそも本能とは何だろう。私は宇宙の情報システムにアクセスする能力のことだと思う。これを「祈り」と呼んでもかまわない。個体を離れて、集団としての情報システムにアクセスすることにより、蟻や蜂はグループ全体で整然と行動することができる。地球そのものの情報システムにアクセスすることにより、渡り鳥やサケやクジラは、長い距離を正確に移動することができる。宇宙の情報システムは一つなのである。あらゆる宇宙の存在物は、一つの「意思」から派生している。科学万能の人間だけが、個体の脳の中にすべての情報が組み込まれているはずだと考えて、「本能」を失ったのである。

キリスト教徒は、人間は「罪びと」だと言う。他の動物や鳥や、魚やオットセイや、カエルやヘビや、樹木や草花たちに罪はない。人間でも子供には罪はない。人間の成人だけが「罪びと」であると感じている。何故だろうか。私は、人間の成人だけが文字や数字のデータ・ベースにアクセスし、社会としての独自のルールを築き上げたことを指しているのではないかと思う。つまり神(自然)との繋がりを切断し、宇宙の情報システムに従わなくなったことを「罪」だとしているである。宇宙の情報システムの特徴は、自然を統一するバランス感覚である。自然は多様な生き物のバランスのとれた「棲み分け」の上に成り立っている。イナゴやバッタの大発生がいつまでも続くことを許さない。一時的に増えても、その結果草原を食べつくし、やがては生存可能な適正な水準に納まるのである。同じく、日本中の河原がすべてセイタカアワダチソウで覆われることもない。人間を除くすべての地球上の生き物は、この「本能」と呼ばれる宇宙のバランスの中で生きているのである。

ところが人間が人工的に築き上げた社会の中では、文字と数字の情報システムは自然とのバランスを無視して独走する。数字という言語を採用した近代的な市場経済システムは、止まったら倒れてしまう自転車のように、永遠に成長し続けることを要求する。70億人に達した世界の人口が、なおも増え続けることを主張する。しかし人間だけが増え続けることは自然が許さない。環境破壊は既に限界にきているのである。皆そのことには気づいてはいるが、日々の衣食住がどっぷりと市場と数字の論理に浸かっている社会は、もはや方向転換が容易ではないのである。

近代の科学文明は、間違いなく西欧のキリスト教徒の偉大な功績であろう。科学のお陰で、人類の生活は随分と便利になった。すべて、測定の道具たる数字を技術に応用したお陰である。科学は混沌とした宇宙に光明をもたらし、不可能を可能にした。しかしだからといって、科学が万能だと考えるのは短絡的である。科学は単なる道具なのだ。道具は使いこなすべきものであり、道具に使われてはならないのである。人間は精神的な生き物であり、宇宙の情報システムとの繋がりを断ち切られては生きていけないのだ。

産業革命は社会を機械のように組み立てた。その結果、われわれは自分を自動化され標準化された機械の部品として見るようになった。人々は機械のメカニズムのように物を考え、お金のように損得で人を判断するようになった。道具を発明したつもりの人間は、自分も道具に成り果てたのである。しかし、どっぷりと科学のドグマに浸った現代人は、そのことに決して気づいていないのである。先人が営々と築いてきた、豊かな文化的、芸術的、宗教的な遺産を忘れ、今や精神の荒廃は目を覆うばかりである。科学とは、人格の陶冶には何の関心も示さない学問である。そして人間の幸、不幸には極めて冷淡な態度をとる。科学の奴隷と化し、心を失った人類は、やがてどこに行くつもりなのだろうか?

日本の神道では、人間だけが神から選ばれた特別な存在という考え方は採らない。人間も多様な自然の一部と見る。神社には神話の神様や、歴史上の偉人やキツネや、大木や大岩や、山そのものがご神体のものまである。八百万の神々は自然界のいたるところに、さまざまに姿かたちを変えて鎮座しておられる。これは自然とのバランスのとれた、古代人のようにおおらかな思想である。先進市場経済国でこのような原始的な宗教が残っていることは奇跡と言ってよい。自然との精神的な絆を回復し、もう一度古代人の心を取り戻すためには、われわれの国土に根付くこの神様は貴重な手がかりを提供してくれるのではなかろうか。鎮守の森に静かに座り、頭の中から一切の「言葉」を排除し、ただ小鳥のさえずりに耳を傾けていれば、こずえの間からチラッチラッとなつかしい古の風景が垣間見えてくるはずである。

2012/01/07

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