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吹きだまりの文化

木枯らしが吹く季節になると、あちこちに「吹きだまり」ができる。公園の生垣の根元や校庭の片隅に、落ち葉が堆積してかさこそと小さな音をたてている。強い北風が広場をすっかり掃き清めたあとでも、吹きだまりには大量の落ち葉が溜まっている。春になって桜の花びらにすっぽりと覆われても、その下には依然として去年の枯葉が残っている。

吹きだまりはどこにでもできるわけではない。風の通り道とか、それをさえぎる障害物の構造とか、微妙な条件が影響し合って出来るものである。いったん吹きだまりに捉えられた葉っぱは、もうそれ以上先には移動できない。だから色んな落葉樹からの落下物が、まるで枯葉の見本市みたいに、一箇所にじっと留まることになる。

吹きだまりはなにも公園や校庭の落ち葉だけに見られる現象ではない。川や海の水に流される浮遊物も、川べりや海岸に吹きだまりを形成する。流されるものとそれを遮る障害物があれば、吹きだまりは色んな形で存在しえる。人間だって時の流れに漂流する浮遊物だと考えれば、それは地球規模の人や文化の往来にも当てはまる現象でもあるのだ。

最近のDNAの科学的な追跡の結果、現在の地球上のさまざまな民族は同一の祖先に行き着くことが証明された。何十万年の太古の昔にアフリカを出発した人類の祖先が、ゆっくりと地球上に拡散していって現在のさまざまな民族の分布を形成していったのである。それは悠久の時の流れに運ばれた浮遊物のように、地球上に人間の吹きだまりを作っても不思議ではない。

日本列島は吹きだまりになりやすい地理的な条件を備えている。古来より大陸の文明は朝鮮半島を伝って渡来してきたが、日本列島で天然の障害物に突き当たった。ここから先は広大な大洋に行く手を阻まれている。だからシベリアからマンモスを追ってきた縄文人も、中国や朝鮮から稲作を伝えた弥生人も、東南アジアやインドからの渡来人も、落ち葉が積もるようにこの列島に留まるしかなかったのだ。

先日モンゴルの紀行番組を見ていたら、中学時代の友人にそっくりな顔がたくさんいた。日本の田舎へ行けばホー・チ・ミンや周恩来レベルのおじさんはいくらでも見かける。チベット高原にはテニスの杉山愛のそっくりさんがいた。そして私自身、香港の街の中で伯父さんが歩いているのを何回も見かけた。きっと祖先は黒潮に乗って日本列島に漂着したボートピープルだったに違いない。

吹きだまりの特徴は古いものがそのまま残っているということである。秋には広場は落ち葉で埋め尽くされる。しかし木枯らしが吹くとそれらは跡形もなく消え去る。春になると校庭は桜の花で一面の雪景色となる。しかし春の嵐は一夜にして花びらを一掃してしまう。ただ吹きだまりの中だけは、春の桜も秋の落ち葉も同居している。そこに吹きだまりの特異性があり、他では得られない価値があるのだ。

中国大陸では王朝が変わるたびに、前の王朝の文物を破壊しつくす。文化大革命は歴史的な寺院や美術品を破壊してしまった。木枯らしが広場の落ち葉を吹き飛ばすように、かつてこの国に栄えた仏教芸術は跡形もなく消えてしまった。だから自国の伝統芸術を学ぶ中国人学生は日本に来なければならない。奈良や京都を訪れて、今でもきれいに手入れされ、現役で機能している寺院を見て、驚きの声をあげる。

私は東南アジアや香港で観音さまを見たことがある。まるで小学生の絵みたいに目のパッチリした観音さまを見て違和感を覚えた。ひどく幼稚に思えて、とても拝む気持ちにはなれなかった。日本ではどんな田舎のお寺でさえも、仏像とはそれなりに芸術的な香りをたたえているものなのに。大陸では度重なる戦乱に破壊されて、仏教芸術はとうの昔に枯渇してしまったのだ。

中国に進出した日本企業の社員がお辞儀をするのを見て、中国人が珍しがるそうである。もともと「礼」は孔子が説いた教えなのに、共産中国ではもはや儒教思想のカケラすら見いだすことはできないようだ。同じくインドで生まれた仏教が本国ではとうの昔に消滅してしまったのに、日本という吹きだまりで千年以上もサンスクリットが生き残っている。

最近では日本語を上手に話す外国人もたくさんいるし、中国人や韓国人は外見も日本人にそっくりだ。しかしいくら上手に話しても、微妙なアクセントや発音の違いで、われわれにはこの人は外国人だとすぐわかる。発音とはそれ程デリケートで決してネイティブのようには話せないものである。吹きだまりには古来多くの渡来人がやってきて、さまざまな言葉を持ち込んだに違いない。しかし語彙や文法は借用できても、発音だけはネイティブのものが遺伝子のように生き残ってきたはずである。

日本語は母音が多い言語である。Koizumi, Fukuda, Hatoyama, など母音だらけである。ところがハワイの言葉も、Aloha, Kamehameha, Ala-moana, Maui など日本語に負けないくらい母音が多い。ハワイアンを聴いていると、日本語を反対から歌っているみたいな妙な気持ちにさせられる。日本という吹きだまりの最も古い地層には、ポリネシア系の血が混じっているに相違ない。

私がまだ小さい頃、父はふんどしをしていた。「越中ふんどし」と呼ばれる、手ぬぐいにヒモを通しただけの、いたってシンプルな代物だ。相撲取りは今でも南洋の土人みたいにふんどしを締めている。昔の日本の田舎の家は、太平洋の島々の村のように藁葺きの屋根だった。神社の社は、湿気の多い熱帯地方のような高床式の建物である。盆おどりはハワイアンのように繊細な手の動きをするし、何と言っても武蔵丸は西郷さんにそっくりではないか。

最近は世界中で日本食ブームだそうである。ニューヨークでもロンドンでも、中近東やロシアでも、スシ・レストランはファッションになっているらしい。しかしなぜ今ごろ日本食ブームなのだろうか?ヘルシーだからか?いや、それだけではないと思う。人びとは画一的なグローバル広場の景色に物足りなくなって、吹きだまりの中をのぞいてみたくなったのだと思う。

日本食の特徴の一つは素材の味を生かすということである。その結果鮮度を重視し、究極的には生で食べるのを最上とする。私の知り合いのドイツ人は日本文化や日本食にたいへん興味を持っていて、ナットウでもシオカラでも何でも食べる。しかし生タマゴだけは駄目だ。私がごはんの上に生タマゴをかけてズルーッと食べてみせたら、信じられないという顔をしていた。

生で食べるということは、最も原始的な食べ方である。肉食獣は獲物を捕らえてその場で食べる。まだ生暖かい血液を口のまわりにしたたらせながら。これ以上の鮮度は望めない状態の内臓にかぶりつく。やがて人類は火を使うことを覚え、焼いたり煮たりすることを覚えた。大陸の「吹きっさらし」の広場に住む文明人は、中華料理でもフランス料理でも、煮る料理が主流である。中国人は決して生ものは食べない。

日本人はエスキモーや縄文人みたいに、ただ生肉にかぶりつくわけではない。素材は生でもそれに洗練された技を加えて、料理は見た目にも美しい芸術品にまで仕立て上げられるのである。吹きだまりの最下層に埋もれた味とニオイの伝統を生かしながら、いともさりげない清潔さと高度な技能で、ユニークな日本文化を作り上げているのである。

それにしても現在の「吹きっさらし」広場のなんと殺風景なことだろうか。中世の末期に西ヨーロッパで目覚めた「数字の文化」は今や地球上をくまなく席巻している。ガリレオ・ガリレイは手作りの望遠鏡で天体を測定し、それを数字に置き換えた。天体の動きは数値化され、紙の上で静止した。じっくりと熟考して数学を解くように天体の動きが予測できるようになった。日食や月食の日時までピタリと当てることが可能になった。

20世紀にアインシュタインが現れて、あらゆる自然現象や宇宙の謎が計算できることになった。物理学万能の時代が到来したのである。高層ビルを建て、巨大なジャンボ・ジェットを空中に浮かせ、月に人間を運ぶことさえ可能になった。そして人間は自分の住むこの社会そのものも、物理学のように数字でコントロールできるはずだと考えた。そして経済学が誕生した。

資本主義や市場経済という社会システムは人びとの予想をはるかに超えて成功した。いまだかつて人類がこれほど豊かになったことはなかった。つい百年前のわれわれの祖先は自分の食べるものを自分で作っていた。人生の大半は食べ物を探したり栽培したりすることに費やされた。しかし現代人にとって衣食住は単なる数字の計算に変わってしまった。お金という数字さえあれば、何でも買える時代になった。

凍てつく寒さもコンクリートのマンションの中で、スイッチひとつで暖房が入る。蛇口をひねればいつでも水が出るし、コンロのガスが青い炎をあげる。ボタンひとつで洗濯ができる、風呂が沸く、排泄物がきれいに流れる。生活はすいぶんと容易になった。しかし生活の利便性を得た一方で、人びとは正体不明の喪失感を味わわされることになった。

市場経済社会では人々は数字という言葉を話す。アメリカ人も中国人も、インド人もアフリカ人も、数字という共通の言語を介して取引に参加している。数字とは極めて融通のきかない言語で、答えをたったの一つしか持たない。答えが一つしかないが故に計算ができる。現代の社会は、人間の衣食住をまるで数学のように合理的に計算することが求められている。

数字はたった10個の文字でできていて、「多いか、少ないか」以外にはなんの意味も持たない。数字という言語で衣食住する人々は、無意識のうちに、白か黒か、敵か見方か、という二者択一的な考え方をするようになる。均質に分けられた時間や空間の中で、人びとは抽象的な風景の中を、計算どうりに、昨日も今日も明日も、たった一つの正しい動作を反復し続けなければならない。

子どもはなぜあんなに楽しそうなのだろう。ただ歩くだけで、ただ生きているだけで楽しそうだ。生きとし生ける者は、犬や猫や、鳥やカエルや、イルカやカメまでも、さんさんと降り注ぐ太陽の英知を全身に浴びて、生き生きと輝いている。人間だけが金融危機に打ちのめされ、失業にあえいでいる。そして人間だけが数字の論理で抽象的に動いている。

人間は精神世界の生き物である。人間も動物も、鳥も魚も、昆虫も虫も、川も海も、大気も石も、精神世界という根っこで宇宙とつながっているのである。精神世界という情報システムで宇宙と一体となって生かされているのである。人間だけを精神世界から切り離して合理の世界に住まわせることはできない。物質世界では成功した物理学も精神世界を測定することは不可能なのだ。

「吹きっさらし」の大陸の広場では、もはや過去は跡形もなく消え去っている。自分はどこから来たのか、どこに行こうとしているのか、自分自身でもわからない。ただ合理の罠にとらわれて、目くらめっぽうに走り続けている。「吹きだまり」の中の人々だけが過去の記憶を感覚として持っている。彼らは数万年前の祖先のニオイや味わいを忘れずに、今でも日々の生活に体現しているのだ。

「吹きっさらし」の人びとは、そのことにようやく気がついたのだ。この世の終わりを救えるのは、「吹きだまり」の人びとなのだと。人類の過去は今でもしっかりと「吹きだまり」に堆積しているのだと。だから今日も世界中の都市生活者がスシ・レストランに通うのだ。だから今日もニューヨーカーは裸になって、ビルのてっぺんのオンセンに通うのだ。

そこにはただ過去がしっかりと封じこめられているだけです。すべてのものはまるで生きているみたいに鮮明にそこに封じこめられているんです。氷というものはいろんなものをそんな風に保つことができるんです。とても清潔に、とてもくっきりと。あるがままにです。それが氷というものの役目であり、本質です。                                                          

村上春樹 「氷男」より

2011/01/23

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