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歩きながら族

最近よく地下鉄の階段などで、若者のくせに妙にのろのろと歩いている輩を見かける。狭い通路がつっかえて前に進めない。こういう場合たいてい彼らはケータイをしながら歩いているのだ。私は歩くのが遅い方だが、自分より遅い歩行者には腹が立ってくる。人間とはつくづくと身勝手なものだと思う。

近頃の世の中の珍なる現象のひとつは、「歩きながら族」の横行であろう。それは街中でも地下鉄の通路でも、あのケータイを操作しながら歩いている人たちのことである。中には二宮金次郎みたいに歩きながら本を読んでいる者もいる。多くの新しい社会現象と同じく、私は最初にこれを目撃したとき、なんとも言えない違和感を覚えたものである。

ルースソックスをはいた女子高生、ズボンをずり下げて歩きにくそうな若者のファッション、つっぱり高校生みたいにカバンのベルトを長く伸ばしたサラリーマンたち。決して機能的ではないし、ましてカッコいいわけでもない。こういう社会風俗の流行の影には、周囲に軽い不快感というショックを与えることにより、自己の存在感を示したいという欲望が潜んでいるのではなかろうか。

電車の座席に座るやいなや携帯を引っぱりだして自分の世界にこもっている人たちを見ていると、さぞかしあのデジタル機器の小窓の奥には面白い世界が広がっているのだろうと想像してしまう。ひょっとしたらあの人たちは、情報化時代の最先端を行く人たちなのだろうか。それとも厳しいグローバル社会を生き抜くために寸暇を惜しんで勉強しているのかしら。

ためしに隣のケータイを覗き込んでみる。なるほど小さい文字で何かの情報にアクセスしているみたいな人もいるし、メールのやりとりをしている人もいるみたいだ。なかにはゲームをやっている人もいる。暇つぶしのパチンコみたいなものかもしれない。いずれにしても人々は現実の世界を離れて、ケータイの小窓からヴァーチャルの世界に没入しているのだ。

「歩きながら族」が可能になったのは、現実の社会そのものがヴァーチャルの世界みたいに抽象化されてきたせいもあるだろう。大都会は幾何学的に整然と区画され、歩道はフラットに舗装されている。毎日まいにち同じ道を通勤している人々にとっては、現実とは退屈なくらい容易な動作の繰り返しになった。均質で予測可能な都市の空間は、目をつぶっていても目的地に着けそうだ。

改札を入って40歩あるいて下りエスカレーターに乗る。エスカレーターをおりて80歩進んだところで電車を待つ。電車を降りたら60歩で上りのエスカレーターに乗り、下りたらすぐ右折して30歩で改札を出る。そのまま真っ直ぐに長い地下道を300歩進み、No.6出口で右折して階段を40段上がり地上に出る。・・・これはもう完全にヴァーチャルな世界である。現実世界が計測可能なデジタルの世界と変わらなくなっているのだ。あまりの退屈さに、ケータイを片手にひょいひょいと冒険してみたくなる気持ちもわかるような気がしてくる。

こんな風にデジタル化した社会で生活し、ケータイの小窓を通してヴァーチャルの世界にアクセスしていると、じつは人間とはアナログの世界の生き物なのだという事実を忘れてしまうのではなかろうか。それは家の中で飼われている犬が、そのうちに自分が犬だということを忘れてしまうみたいに。

村上春樹が何かのエッセイの中で、学問が身に付かない人間を二つのタイプに分類していたような気がする。

「勉強減り」というのは学生時代にやたら勉強したけれど社会に出てから寝転んでTVばかり見ているというタイプであり、「勉強ずれ」というのはとにかく何かを勉強していないと落ち着かないタイプである。

さしずめ「歩きながら族」は「勉強ずれ」ということになるのかもしれない。

子どもはある日突然に自転車に乗れるようになる。そして乗れるようになると、その後はずーっと「乗れる」状態が持続されるのである。大人になって長いブランクがあっても、一度おぼえた自転車には必ず「乗れる」のである。アナログの世界ではいったん身体でおぼえた能力は決して忘れることはない。

われわれは文字を覚えることと知識を得ることは同じことだと思っている。文字で書かれた情報を収集すれば知識が増すような錯覚におちいりがちである。しかしいくら本を読んでも自転車に「乗れる」ようにはならない。アナログ世界に住む人間は、文字で書かれた情報をいったん個人の経験として咀嚼し直さなければ本当に「乗れる」ようにはならないのだ。

「歩きながら族」の諸君には申し訳ないけれど、毎日ヴァーチャルの世界にアクセクして大量に抽象的な情報をフォローしても、それらはただ右から左へと通過していくだけかもしれないのだ。本当に身に付く知識とは、じっくりと腰を据えて独自のやり方でアナログ化し、潜在意識にまで浸透させた情報だけなのだから。

子どもにとって勉強でも運動でも絶対負けないのに、ケンカになると勝てない相手というのがいるものだ。相撲のようにルールのある勝負なら勝てるのに、子ども同士のケンカになると圧倒されてしまう。これは理屈ではなく、気合の問題であろう。デジタル世界の論理では推し測れない、アナログ世界特有の「精神現象」である。

いくら本を読んでもケンカが強くはならない。ケンカが強くなりたかったら、実際にケンカをしてみるしか方法はない。何度も泣かされながら、ある日突然その呼吸を感じ取るものだ。アナログの世界では誰も何もおしえてはくれない。しかしその気にさえなれば、誰でも独自に何かを学び取ることができる世界でもあるのだ。

人間は「生き物」である。われわれは宇宙と一体となって生きているのである。あらゆる「生き物」は、動物も鳥もサカナも、草も石も水も空気も、「精神世界」という根っこによって自然とつながっているのである。だから人間も、渡り鳥やクジラやサケのように、いつでも地球と会話ができたのだ。しかし現代人は社会システムという高い塀を周囲にめぐらせ、その中で「物質世界」の言葉を話し始めたのだ。

われわれはもうそろそろ気づくべきなのかもしれない。自分たちはいったいどこへ行こうとしているのかを。何百年もかけて万里の長城の何千倍、ピラミッドの何万倍もの巨大なマーケット・ネットワークを地球上に張り巡らした人類は、自らの創作物であるこのヴァーチャルなメカニズムの中で徐々に自分を見失いつつあるのではないかということを。

「歩きながら」ケータイを操作している人たちを見ていると、滑稽というよりもなんだか悲しくなってくる。生きとし生けるものはすべて、鳥でも虫でも花でも、それなりに個性的で美しく威厳さえ備えているというのに、なぜ人間だけが前かがみになって、四六時中デジタル機器を操作して無機質な時間を過ごさなければならないのか。子どもの頃はあんなに生き生きとして、聡明そうな目をしていたのに。

人類の歴史は長く、われわれはその進化の記憶を既に失っている。しかし日常生活では意識することがなくても、人類の全記録は水面下に沈んだ巨大な無意識の世界に今でも厳然と存在しているのである。そして何かの拍子に突然突き上げてくる理解不能なニオイの中に、われわれはその歴史の片鱗を想像することができる。心をかき乱すその制御不能なニオイの正体こそ、じつは人類を生き延びさせてきたアナログ世界の記憶なのだ。

2010/09/04

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