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1Q84 (No.5) 記憶と時間と科学的方法

「その十秒間ほどの情景が、鮮明に意識の壁に焼き付けられている。前もなく後ろもない。大きな洪水に見舞われた街の尖塔のように、その記憶はただひとつ孤立し、濁った水面に頭を突き出している」

アンリ・ベルグソンは心と肉体(脳)の働きは平行していないということを、「科学的」に証明した人です。科学的に脳という物体を分解し、測定しても、「心」の働きは分からないのです。記憶は人間の脳の中には存在しないのです。ではどこにあるのか、と聞くこと自体が無意味な質問だといいます。

記憶は、科学的な方法では測定できない、どこか別の次元の世界に厳然と存在しているものです。人間の脳は、その記憶にアクセスする機能だけが備わっています。膨大な記憶の中から、今必要なものだけを選り分けてアクセスしているのです。何かの原因で脳に損傷を受けた患者は、この選別機能がうまく働かずに、記憶がどっと溢れ出てくるのです。

電話帳をまるごと一冊覚えたり、数年先の曜日を当てたりする人がいます。このような人は「天才」ではなく、脳の選別機能がうまく働かなくなり、記憶がどっと溢れ出てくるのです。そのためにいつも頭の中の整理がつかず、混乱していて、通常の社会生活が送れないのです。

「マタイ受難曲」と天吾は言った。

「歌詞を覚えているんだ」

「おぼえていない」とその少女は言った。天吾は何かを言おうとしたが、言葉が浮かんでこなかった。

「記憶を消す」ことは不可能なことです。記憶は、人間の肉体とは別の次元に存在するものです。物忘れが激しいなどといいますが、それは記憶そのものがあいまいになったのではなく、記憶にアクセスする機能がうまく働かなくなっただけのことです。記憶そのものは、消せないものです。

何かの原因で、生きるという集中力を失った人、例えば山の上から転落したり、銃弾に撃たれたりした人が、ほんの数秒の間に、自分の全生涯の記憶を辿ったという話があります。この場合も異常な事態で、脳のアクセス機能がもはや「生きる」という注意力を失い、記憶がどっと溢れ出てきたのです。

「その鮮明な映像は、前触れもなしにやってくる」

私は若い頃、夢の中で電車の発車のベルの音を聞きました。あまりに生々しく、大きな音だったので目を覚ましたら、枕元で目覚まし時計がジリジリと鳴っていました。しかし私がみた夢は、長いストーリーのある夢だったのです。

不思議でならないのは、そのストーリーの結末が目覚まし時計のベルの音と一致していることです。どうして、目覚まし時計が鳴った数秒の間に、どんなに少なく見積もっても数十分はかかると思われる、長い物語を辿ることができたのかということです。「記憶」の世界には「時間」がないようです。

「時間そのものは均一な成り立ちのものであるわけだが、それはいったん消費されるといびつなものに変わってしまう。ある時間はひどく重くて長く、ある時間は軽くて短い。そしてときとして前後が入れ替わったり、ひどいときにはまったく消滅してしまったりする。ないはずのものが付け加えられたりする」

幼児はほんの数年のうちに言葉を覚えます。一方では、10年以上英語を習っても、ひと言もしゃべれない大人もいます。実に不可思議なことです。しかしこれも、記憶に対する考え方の相違からきていると考えれば理解できます。

幼児は、大人が英語を習うように、脳の中に一から単語帳を作っていると考えるから、「子供は天才」のように見えるのです。もし、幼児が単に自転車に乗る方法を習うように、言語の記憶にアクセスする方法だけを習っているのだと考えればどうでしょうか。言語のデータベースにアクセスする方法を覚えた途端に、幼児の口から言葉がどっと溢れ出てくるのです。

「記憶は不思議なものだ。二十年前のことなのに、その文句をひと通り思い出せる」

子供は絶えずしゃべり続けています。幼稚園はすずめの学校のように賑やかです。子供にとっては、しゃべるのを止めることの方が苦痛です。「静かにしなさい」と子供を叱っている母親をよく見かけます。大人とはおとなしい、つまり黙っていることができる人のことです。

放っておけば溢れ出てくる言葉を、選り分けてコントロールできるようになった人のことを「おとな」と呼びます。英語のGentlemanは成熟した紳士のことですが、文字通り訳せば「静かな人」です。子供と同じように、おしゃべりが止まらない女性というものが、どのレベルに属するかは想像に任せましょう。成熟した人間は、言葉も記憶と同じく、脳の中で必要なものだけを、必要なときに、選別して使っているのです。

「天吾は黒板を消すように意識をまっさらにし、もう一度記憶を堀り起こしてみた」

現代の「おとな」は、過去と未来には、無限の「死んだ」時間が流れていると考えます。人間の「生きている」期間は、せいぜい数十年です。「生まれて」くる前は、「死んだ」状態です。そして「死んだ」後も、永遠に「死に続ける」のです。人間は誰でも、いつか「自分の星」に帰っていくのです。

人間にとって、「生きている」時間より、「死んでいる」時間の方が、圧倒的に長いのです。「生きている」ことの方が、むしろ異常というべきです。そう考えると、「死ぬ」ことはむしろ、自分の故郷へ帰るようなものです。ところが現代人は、死ぬことが「怖い」と言います。何故でしょうか。

「リトル・ピープルという言葉には不吉な響きが含まれていた。青豆の耳はその微かな響きを、遠くの雷鳴を聞くときのように感知することができた」

現代の「おとな」の死生観の最も顕著な特徴の一つは、「死は怖い」という抜きがたい恐怖感です。この恐怖感は、「時間」を数学的・科学的に捉えることから出てくる固定観念です。「科学的な時間」は一直線です。自分が「死んだ」後は、永遠の闇に向かって、ロケットのように進み続けるのです。「ゼロ」と同じく、「無限大」という数学的な発想は、人間の精神状態をひどく不安定なものにします。

300年前に「科学の奴隷」になる前には、人間はむしろ、時間は丸いものだと感じていました。ぐるっと回って、また元に戻ってくる、というイメージを持っていました。丸いビンに沿って歩く昆虫は、ぐるぐると回って、永遠に歩き続けなければなりません。同じく、丸い時間の過去と未来は繋がっているのです。「無限大」の過去の時間と、「無限大」の未来の時間は、その先端が丸く繋がっているのです。

「もともと順序のないものに順序を与えようとしても、それは無駄な試みでしかない。たどり着ける場所は限定されている」

地球も月も太陽も、丸い天体です。自分自身もグルグル回転しながら、月は地球の周りを、地球は太陽の周りを、回っています。惑星も恒星も衛星も、丸い天体が自転しながら公転しています。宇宙は生々流転する「丸い」世界です。

太陽は東から昇り西に沈みます。沈んだ太陽はまた明日になれば昇ってきて、ぐるぐると毎日循環しています。月も星も同じです。昨日も今日も明日も同じ時間が循環しています。春夏秋冬と季節が巡り、植物が芽を出し、花を咲かせ、実を付けて、一年は循環します。鳥もカエルも春に卵を産み、サケは同じ川をさかのぼり、季節ごとに渡り鳥は移動していきます。

つまり宇宙はすべて循環していると考えたのです。生命も同じです。生まれたものは死に、死んだものはまた生まれ変わる。あらゆる生命は循環しているのです。この世は仮の世です。この世からあの世に行き、また生まれ変わってこの世に来るのです。生まれた赤ん坊が、死んだお祖父さんに似ているのは、お祖父さんの生まれ変わりだと考えました。心安らぐ思想です。

「蝶というのは何よりはかない優美な生物なのです。どこからともなく生まれ、限定されたわずかなものだけを静かに求め、やがてどこへともなくこっそりと消えていきます。おそらくこことは違う世界に」

ところが「科学」のように、時間が一直線だと考えるとどうでしょうか。過去と未来は、反対方向に向かって、「永遠に」進み続けるのです。「死」の状態が、数学上の「無限大」に続くと言うのです。なんという寂しい思想でしょう。それは、丸いビンの上を歩く昆虫のように、孤独で滑稽な思想です。自分で幽霊を想像して、勝手に怖がるようなものです。

精神世界と物質世界は根本的に異質なものなのです。物質世界では有効だった「科学的方法」を、精神世界に適用することは間違いです。精神世界という、複雑で多次元な「生き物」を、論理の連鎖で解明しようとすることは誤りです。しかし「科学万能」「数字万能」の現代人は、決してこのことに気づいていないのです。

「それもむずかしい問いかけだ。原因と結果という論法はここではあまり力を持たない」

2009/09/13

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