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星の王子さま (17) 数字のように考える

「星の王子さま」には、現代文明を象徴する人物としての「おとな」が登場します。「子ども」の目から見た「おとな」は、時には滑稽でさえあります。しかし「おとなって、変な人たちだなあ」と揶揄された「おとな」とは、じつは、われわれ自身でもあるのです。

「でも、星を持ってて、いったい、なんの役にたつの?」

「金持ちになるのに役だつよ」

「金持ちになると、なんの役にたつの?」

「だれかが、ほかにも星を見つけだしたら、そいつが買えるじゃないか」

このひと、さっきの呑んだくれと同じような理くついってるな、と王子さまは思いました。 (67-68)

つい百数十年前のわれわれの祖先は、自分で食べるものを自分で作っていました。ところが現代人はもはや、自分で食べるものを自分では作りません。われわれは、お金(数字)を使って衣食住しています。具体的で個別的な衣食住という日常は、いまや入金>出金という、抽象的な「数字の世界」に置き換えられたのです。

「星を持つのは金持ちになるためで、金持ちになるのは星をもつため」という、堂々巡りを、われわれは笑うわけにはいきません。この論理の矛盾は、数字を社会の言語に採用した、現代社会の矛盾でもあります。しかしどっぷりと「数字の世界」に浸った「おとな」は、決してこのことに気づいていないのです。

王子さまは、こんどは、ほんとうに腹をたてていました。そして、目のさめるような金色の髪を、風にゆすっていいました。

「ぼくの知ってるある星に、赤黒っていう先生がいてね、その先生、花のにおいなんか、吸ったこともないし、星をながめたこともない、だあれも愛したことがなくて、していることといったら、寄せ算ばかりだ。そして日がな一日、きみみたいに、いそがしい、いそがしい、と口ぐせにいいながら、いばりくさっているんだ」(40) 

数字という普遍的言語のおかげで、われわれは巨大なマーケットを築き上げることができました。この資本主義社会と呼ばれる数字の社会は、大成功を収めました。現代文明は、数百年前のわれわれの祖先が見たら、まるで極楽浄土みたいに豊かな世界です。

豊かな社会はまた競争社会でもあります。巨大なマーケットは、巨大な利益をもたらしました。しかし一方で人びとは、世界規模の競争に巻き込まれました。そして現代人はめっぽう忙しくなりました。入金>出金という数字の論理には、昼も夜もありません。そして「おとな」にとって、「忙しい」ということは美徳になったのです。

「おとな」にとって、「赤字」か「黒字」かは、「死ぬ」か「生きる」かを意味します。「寄せ算ばかり」している「赤黒先生」は、「花の匂い」なんか、「吸ったこと」もないし、「星を眺めて」夢見たこともないし、「だあれも愛した」ことがなく、「忙しい、忙しい」と言いながら、「日がな一日」数字の論理で働き続ける、無機質な人間に成り下がってしまったのです。

ぼくがこんなふうに、B-612番の星の話をして、その番号までもち出すというのも、じつはおとなの人たちがよくないからです。おとなというものは、数字がすきです。新しくできた友だちの話をするとき、おとなの人は、かんじんかなめのことはききません。<どんな声の人?>とか、<どんな遊びがすき?>とか、<チョウの採集をする人?>とかいうようなことは、てんできかずに、<その人、いくつ?>とか、<きょうだいは、なん人いますか>とか、<目方はどのくらい?>とか、<おとうさんは、どのくらいお金をとっていますか>とかいうようなことを、きくのです。そして、やっと、わかったつもりになるのです。(26-27) 

品物を数字に置き換えるのは、それにより比較が容易になり、交換がスムーズに行われるからです。「数字」は交換のための、「手段」に過ぎません。実在するのは品物であり、数字はバーチャルの仮想世界です。ところが毎日まいにち、「寄せ算ばかり」している「赤黒先生」には、仮想世界の方が現実に見えてくるのです。

「おとな」は、あらゆることを「数字」に置き換えます。そしてその後で「置き換えた」ことを忘れ、ものごとを数字のように考えます。個性を持った、「生身」の人間を理解するためには、「どんな声の人?」とか、「どんな遊びがすき?」とか、「チョウの採集をする人?」とかいうようなことを聞かなければなりません。

ところが数字で衣食住する「おとな」は、あらゆる事物を一旦数字に置き換えます。「その人、いくつ?」とか、「兄弟は、何人いますか」とか、「目方はどのくらい?」とか、「お父さんは、どのくらいお金をとっていますか」とか質問します。そして数字に置き換えた後で、ものごとの多寡を「客観的」に「比較」して、「やっと」、「分かったつもり」になるのです。

王子さまは、もうまっさおになっておこっていました。「花は、もうなん百万年も前から、トゲをつくってる。ヒツジもやっぱり、もうなん百万年も前から、花をたべてる。でも、花が、なぜ、さんざ苦労して、なんの役にもたたないトゲをつくるのか、そのわけを知ろうというのが、だいじなことじゃないっていうのかい?花がヒツジにくわれることなんか、たいしたことじゃないっていうの?ふとっちょの赤黒先生の寄せ算より、だいじなことじゃないっていうの?ぼくの星には、よそだとどこにもない、めずらしい花が一つあってね、ある朝、小さなヒツジが、うっかり、パクッとくっちまうようなことがあるってこと、ぼくが --- このぼくが --- 知ってるのに、きみ、それがだいじじゃないっていうの?」(40-41) 

「花」は、自分の身を守るために、「何百万年も前」から「トゲ」を作っています。でも「ヒツジ」も「何百万年も前」から、「花のトゲ」なんか苦もなく、食べることができます。そうすると「おとな」は、「花」が「食べられる」か「食べられない」かは、「ふとっちょの赤黒先生の寄せ算」みたいに、単なる「数学上」の「確率」の問題に置き換えてしまいます。

しかし王子さまにとって「花」は、この世で「たった一つの」「かけがえのない」「生き物」です。愛する「花」が、「パクッ」と「ヒツジ」に「食べられちまう」ことは、「運が悪い」では済まされない、生々しい「経験」です。だから「その訳を知ろう」というのは、自分が「生きる」のと同じぐらい、「大事なこと」なのです。

だけれど、ぼくたちには、ものそのもの、ことそのことが、たいせつですから、もちろん、番号なんか、どうでもいいのです。 (28) 

われわれの社会は「大事なこと」を「多数決」で決めます。「民意」を反映した「民主主義」は「正しい」ことだという信条で成り立っています。しかし「数で決める」ことは、いちばん簡単なことです。それは時には、「無責任」にさえ映ります。なぜなら大多数の国民は、「忙しい、忙しい」と言って、じっくり物を考える暇などないからです。

サン=テグジュペリは、「大切」なことは、「ものそのもの、ことそのこと」の性質で判断すべきであり、「番号(数字)」の多寡なんか、「どうでもいい」と言っています。この世で「たった一つの」「かけがえのない」愛する「花」が、「パクッ」と「ヒツジ」に「食べられちまう」ことは、「ふとっちょの赤黒先生の寄せ算」みたいに、単なる「数学上」の「確率」の問題ではないからです。

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コメント

本日も、素晴らしい内容に感動!

ううう・・・何故か・・・言葉がでません。
数字の世界に生きてますからかな?
もちろん、数字の世界に生きながらも、かけがえのない愛するものはありますけど、何故か今日の記事を読んで、グサッと何かが刺さった感じがします。

投稿: コンドウ(素人さんの為の不動産学校 | 2007年10月24日 (水) 20時23分

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