1Q84 (No.5) 記憶と時間と科学的方法

「その十秒間ほどの情景が、鮮明に意識の壁に焼き付けられている。前もなく後ろもない。大きな洪水に見舞われた街の尖塔のように、その記憶はただひとつ孤立し、濁った水面に頭を突き出している」

アンリ・ベルグソンは心と肉体(脳)の働きは平行していないということを、「科学的」に証明した人です。科学的に脳という物体を分解し、測定しても、「心」の働きは分からないのです。記憶は人間の脳の中には存在しないのです。ではどこにあるのか、と聞くこと自体が無意味な質問だといいます。

記憶は、科学的な方法では測定できない、どこか別の次元の世界に厳然と存在しているものです。人間の脳は、その記憶にアクセスする機能だけが備わっています。膨大な記憶の中から、今必要なものだけを選り分けてアクセスしているのです。何かの原因で脳に損傷を受けた患者は、この選別機能がうまく働かずに、記憶がどっと溢れ出てくるのです。

電話帳をまるごと一冊覚えたり、数年先の曜日を当てたりする人がいます。このような人は「天才」ではなく、脳の選別機能がうまく働かなくなり、記憶がどっと溢れ出てくるのです。そのためにいつも頭の中の整理がつかず、混乱していて、通常の社会生活が送れないのです。

「マタイ受難曲」と天吾は言った。

「歌詞を覚えているんだ」

「おぼえていない」とその少女は言った。天吾は何かを言おうとしたが、言葉が浮かんでこなかった。

「記憶を消す」ことは不可能なことです。記憶は、人間の肉体とは別の次元に存在するものです。物忘れが激しいなどといいますが、それは記憶そのものがあいまいになったのではなく、記憶にアクセスする機能がうまく働かなくなっただけのことです。記憶そのものは、消せないものです。

何かの原因で、生きるという集中力を失った人、例えば山の上から転落したり、銃弾に撃たれたりした人が、ほんの数秒の間に、自分の全生涯の記憶を辿ったという話があります。この場合も異常な事態で、脳のアクセス機能がもはや「生きる」という注意力を失い、記憶がどっと溢れ出てきたのです。

「その鮮明な映像は、前触れもなしにやってくる」

私は若い頃、夢の中で電車の発車のベルの音を聞きました。あまりに生々しく、大きな音だったので目を覚ましたら、枕元で目覚まし時計がジリジリと鳴っていました。しかし私がみた夢は、長いストーリーのある夢だったのです。

不思議でならないのは、そのストーリーの結末が目覚まし時計のベルの音と一致していることです。どうして、目覚まし時計が鳴った数秒の間に、どんなに少なく見積もっても数十分はかかると思われる、長い物語を辿ることができたのかということです。「記憶」の世界には「時間」がないようです。

「時間そのものは均一な成り立ちのものであるわけだが、それはいったん消費されるといびつなものに変わってしまう。ある時間はひどく重くて長く、ある時間は軽くて短い。そしてときとして前後が入れ替わったり、ひどいときにはまったく消滅してしまったりする。ないはずのものが付け加えられたりする」

幼児はほんの数年のうちに言葉を覚えます。一方では、10年以上英語を習っても、ひと言もしゃべれない大人もいます。実に不可思議なことです。しかしこれも、記憶に対する考え方の相違からきていると考えれば理解できます。

幼児は、大人が英語を習うように、脳の中に一から単語帳を作っていると考えるから、「子供は天才」のように見えるのです。もし、幼児が単に自転車に乗る方法を習うように、言語の記憶にアクセスする方法だけを習っているのだと考えればどうでしょうか。言語のデータベースにアクセスする方法を覚えた途端に、幼児の口から言葉がどっと溢れ出てくるのです。

「記憶は不思議なものだ。二十年前のことなのに、その文句をひと通り思い出せる」

子供は絶えずしゃべり続けています。幼稚園はすずめの学校のように賑やかです。子供にとっては、しゃべるのを止めることの方が苦痛です。「静かにしなさい」と子供を叱っている母親をよく見かけます。大人とはおとなしい、つまり黙っていることができる人のことです。

放っておけば溢れ出てくる言葉を、選り分けてコントロールできるようになった人のことを「おとな」と呼びます。英語のGentlemanは成熟した紳士のことですが、文字通り訳せば「静かな人」です。子供と同じように、おしゃべりが止まらない女性というものが、どのレベルに属するかは想像に任せましょう。成熟した人間は、言葉も記憶と同じく、脳の中で必要なものだけを、必要なときに、選別して使っているのです。

「天吾は黒板を消すように意識をまっさらにし、もう一度記憶を堀り起こしてみた」

現代の「おとな」は、過去と未来には、無限の「死んだ」時間が流れていると考えます。人間の「生きている」期間は、せいぜい数十年です。「生まれて」くる前は、「死んだ」状態です。そして「死んだ」後も、永遠に「死に続ける」のです。人間は誰でも、いつか「自分の星」に帰っていくのです。

人間にとって、「生きている」時間より、「死んでいる」時間の方が、圧倒的に長いのです。「生きている」ことの方が、むしろ異常というべきです。そう考えると、「死ぬ」ことはむしろ、自分の故郷へ帰るようなものです。ところが現代人は、死ぬことが「怖い」と言います。何故でしょうか。

「リトル・ピープルという言葉には不吉な響きが含まれていた。青豆の耳はその微かな響きを、遠くの雷鳴を聞くときのように感知することができた」

現代の「おとな」の死生観の最も顕著な特徴の一つは、「死は怖い」という抜きがたい恐怖感です。この恐怖感は、「時間」を数学的・科学的に捉えることから出てくる固定観念です。「科学的な時間」は一直線です。自分が「死んだ」後は、永遠の闇に向かって、ロケットのように進み続けるのです。「ゼロ」と同じく、「無限大」という数学的な発想は、人間の精神状態をひどく不安定なものにします。

300年前に「科学の奴隷」になる前には、人間はむしろ、時間は丸いものだと感じていました。ぐるっと回って、また元に戻ってくる、というイメージを持っていました。丸いビンに沿って歩く昆虫は、ぐるぐると回って、永遠に歩き続けなければなりません。同じく、丸い時間の過去と未来は繋がっているのです。「無限大」の過去の時間と、「無限大」の未来の時間は、その先端が丸く繋がっているのです。

「もともと順序のないものに順序を与えようとしても、それは無駄な試みでしかない。たどり着ける場所は限定されている」

地球も月も太陽も、丸い天体です。自分自身もグルグル回転しながら、月は地球の周りを、地球は太陽の周りを、回っています。惑星も恒星も衛星も、丸い天体が自転しながら公転しています。宇宙は生々流転する「丸い」世界です。

太陽は東から昇り西に沈みます。沈んだ太陽はまた明日になれば昇ってきて、ぐるぐると毎日循環しています。月も星も同じです。昨日も今日も明日も同じ時間が循環しています。春夏秋冬と季節が巡り、植物が芽を出し、花を咲かせ、実を付けて、一年は循環します。鳥もカエルも春に卵を産み、サケは同じ川をさかのぼり、季節ごとに渡り鳥は移動していきます。

つまり宇宙はすべて循環していると考えたのです。生命も同じです。生まれたものは死に、死んだものはまた生まれ変わる。あらゆる生命は循環しているのです。この世は仮の世です。この世からあの世に行き、また生まれ変わってこの世に来るのです。生まれた赤ん坊が、死んだお祖父さんに似ているのは、お祖父さんの生まれ変わりだと考えました。心安らぐ思想です。

「蝶というのは何よりはかない優美な生物なのです。どこからともなく生まれ、限定されたわずかなものだけを静かに求め、やがてどこへともなくこっそりと消えていきます。おそらくこことは違う世界に」

ところが「科学」のように、時間が一直線だと考えるとどうでしょうか。過去と未来は、反対方向に向かって、「永遠に」進み続けるのです。「死」の状態が、数学上の「無限大」に続くと言うのです。なんという寂しい思想でしょう。それは、丸いビンの上を歩く昆虫のように、孤独で滑稽な思想です。自分で幽霊を想像して、勝手に怖がるようなものです。

精神世界と物質世界は根本的に異質なものなのです。物質世界では有効だった「科学的方法」を、精神世界に適用することは間違いです。精神世界という、複雑で多次元な「生き物」を、論理の連鎖で解明しようとすることは誤りです。しかし「科学万能」「数字万能」の現代人は、決してこのことに気づいていないのです。

「それもむずかしい問いかけだ。原因と結果という論法はここではあまり力を持たない」

2009/09/13

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1Q84 (No.4) 空気さなぎを作る人々

「時間をいったん分割して細かいフラグメントにし、それを組み立てなおし、有効な音列に変えていくことに、彼は自然な喜びを感じた。すべての音が図式となって、頭の中に視覚的に浮かんだ」

中世の終わりからルネッサンス期にかけての西ヨーロッパ人は、物事を視覚化し、数量化することに目覚めました。例えば従来の観念では、時間というものは、連続して流れるものだと考えられていました。従って、当時の時計は、連続して流れる砂や水の時間を測定するタイプのものでした。しかし、やがて時間を均質な瞬間の連続と考えるようになりました。点の集まった線だと考えたのです。その結果、歯車でコツコツと一定の時を刻む機械時計が発明されました。

同じく音楽とは、連続して流れる音だと考えられていました。ところが、中世の終わりの人々は、これも均質な点の集まった線だと考えたのです。その結果、音楽を数値化し視覚化して、正確な楽譜を作ることが可能になりました。即ち、音楽を数量化してグラフにしたのです。このグラフの横軸は音の長さで、縦軸は音の高低です。

紙の上に書かれた音は時間が静止しました。音は時間とともに消えないで、一枚の紙の上に全容を留めています。前後の音を逆行させたり、メロディーとリズムを分割したり、結合したり、多重音声も可能になりました。視覚化することにより、複雑な作曲も可能となったのです。音楽は聴くものから、見るものに変わりました。ベートーベンが完全に耳が聞こえなくなった後でも、作曲活動を続けられたのもこのためです。

「平均律クラヴィーア曲集は数学者にとって、まさに天上の音楽である。十二音階すべてを均等に使って、長調と短調でそれぞれに前奏曲とフーガが作られている。全部で24曲、第一巻と第二巻をあわせて48曲、完全なサイクルがそこに形成される」

昔は、お金も連続して流れるものと考えられていました。流れ去ったお金の出入りを、正確に記憶している者は誰もいませんでした。しかし、中世の終わりの西ヨーロッパ社会で、複式簿記が発明され、お金の流れは紙の上に記録されるようになりました。

時間が静止したお金の流れは、後でゆっくりと分析することが可能になりました。過去の数字と現在を比較したり、儲けや損失の原因を調べたり、差額や比率を出して資金効率を改善することも可能になりました。数量化し、視覚化することにより、商売はより確実で、制御可能な、効率のよいものに変わりました。

時間や音楽やお金の流れだけでなく、長さも、重さも、強さも、速さも、あらゆる事物を均質な単位に還元し、その数を測定しました。数字に表すことにより、自然現象は紙の上に視覚化されました。時間を止め、じっくりと分析を加えることができるようになりました。その結果事物を支配する法則を発見し、コントロールが可能となったのです。

西欧人は数字という客観的な計測器具を手にして、神秘な宇宙の謎を解き明かしてきました。この実証的な態度はやがて科学技術の進歩をもたらし、巨大な橋も、高層ビルも、月に人間を運ぶことさえ可能になりました。「全体は部分の総計」というデカルト的な因果律の世界観からスタートした科学的方法は、めざましい技術の発達と現代の豊かな物質文明をもたらしました。

「よく見ると、空気の中にはいろんな糸が浮かんでいた。見ようとすれば、それは見える」

思想とは不思議なものです。この世界をどのように考えるかにより、現実の世の中も変わってくるのです。目に見えない異次元の空気の中から、アイディアを紡ぎだして形にする。それは見ようとした者だけに見える。現代の高度に発達した文明社会は、「数字」の持つ可能性に狂喜した一群の人々からスタートしました。小さな種子が、数百年かけて科学技術という大木に成長したのです。

人間が作ったものには、すべて思想が宿っています。電車のつり革は、なんであんな形をしているんだろう。韓国の電車も、ロンドンの地下鉄もまったく違う形をしているのに。それはそれぞれの形の影に、異なった人間の異なった思考が存在しているからです。それはそれぞれの人々にとって大切な「空気さなぎ」なのです。

「これは俺がスケッチに描き、文章にした空気さなぎそのままだ、と天吾は思った。空に浮かんだ二つの月の場合と同じだ。彼が文章にしたかたちが、なぜか細部までそのまま現実のものとなっている。原因と結果が錯綜している」

小林秀雄は、人間は物を考えるとき、知らず知らずにその時代に支配的な前提条件(ドグマ)に縛られているものだ、と言っています。そしてどっぷりとドグマに浸った自分は、そのことに決して気が付かないのです。縄文人も、弥生人も、彼らなりの世界観でこの世を理解していました。古事記に書かれた神話を、荒唐無稽と笑うわけにはいきません。あれは古代人が一生懸命考えた、彼らなりの思想なのです。現代人の色眼鏡を通して、彼らの思想を批判してはいけないのです。

長い間、人類にとって最も切実な問題は、経済的な問題でした。産業革命と科学技術の進歩は、この天地創造以来の難問を解決しました。これは人類の歴史上、画期的な出来事でした。人間は自信をもち、物質世界では、神と肩を並べたと自負するまでになりました。科学万能の世の中が到来しました。

神を含む、あらゆる宇宙の現象は科学的に説明できるとさえ考えるようになりました。科学は傲慢になり、科学的でないことは信ずるに足らない、軽蔑の対象となりました。西ヨーロッパ人は、科学的でない他の地域を軽蔑し、科学の目を通して古代の歴史を軽蔑しました。そして人間が住む自分の社会そのものも、科学的に組み立てようと試みました。

科学的な真理があるように、社会にも絶対真理が存在するはずだと考えました。人間も分子のように、因果律によって動く、コントロール可能な存在だと考えました。そして「経済学」が誕生しました。人間も宇宙も、機械時計のように一度ゼンマイを巻けば、後は自動的に動き続ける無機質な世界だと考えました。

「リトル・ピープルは目に見えない存在だ。それが善きものか悪しきものか、実体があるのかないのか、それすら我々にはわからない。しかしそいつは着実に我々の足元を掘り崩していくようだ」

神様がいるかいないかとか、魂は存在するかしないか、などという暢気なことを言うようになったのも、人類の歴史でたかだかこの300年位のものです。昔から、人間にとっても、あらゆる生き物にとっても、神様がいるなどということは、口にするのもバカバカしいくらい当たり前の話だったのです。それが科学万能の世の中になり、人間が自分を機械の部品のように考えるようになってから、神様がいなくなったのです。同時に、生き物としてのあらゆる感性も失いつつあります。

「僕は、なんと言えばいいんだろう、心の問題についてはとても臆病なんだ。それが致命的な問題点だ」

人間は自分だけ、外界から孤立して存在しているわけではありません。われわれは宇宙と一体となった存在です。例えば、人間は空気を呼吸して生きています。一瞬たりとも呼吸を止めるわけにはいきません。人間は、頭の中では偉そうなことを考えても、呼吸などという極めて原始的な動作をしているのです。空気とは、地球上をまんべんなく覆っている物質です。その地球そのもののともいうべき大気を、直接体内に取り込んでいるのです。そうしなければ一瞬たりとも生きていけないということは、人間も地球の一部だということです。

デカルトの末裔たる科学者が、どのように説明するかは分かりませんが、常識で考えればそうなります。人間も、動物も鳥も、植物も水も、空気も石も、あらゆる地球上の生き物は、同一の素から派生しているのです。万物は生成流転すると、インドの聖者は教えています。300年前に人間が科学の奴隷になる前には、常識はそのように考えたのです。人間が一番偉いなどと、大それたことを考える者はいませんでした。

「なぜならばこの自然界において、人が自分自身以上のものになることは、自分自身以下のものになるのと同じくらい罪深いことであるからだ」

人間は自然と一体であるということは、当然自然と会話ができたのです。人間も、動物も鳥も、植物も水も、空気も石も、あらゆる地球上の生き物は同一の情報システムを共有しているのです。そうでなければ、春夏秋冬と調和がとれた自然の営みを説明できません。ただ、人間だけはそのアクセスの方法を忘れてしまったのです。

蟻や蜂はグループ全体で整然と行動します。渡り鳥やサケやクジラは、季節ごとに長い距離を正確に移動します。われわれは、このような能力のことを本能と呼びます。そして人間には本能がなくなったといいます。なぜでしょうか。そもそも本能とは何でしょうか。私は宇宙の情報システムにアクセスする能力のことだと思います。これを「祈り」と呼んでもかまいません。

「天吾はそうなることを心から祈った。正確な祈りの言葉こそ持たなかったけれど、彼の心はかたちのない祈りを宙に紡ぎ出していた」

個体を離れて、集団としての情報システムにアクセスすることにより、蟻や蜂はグループ全体で整然と行動することができます。地球そのものの情報システムにアクセスすることにより、渡り鳥やサケやクジラは、長い距離を正確に移動することができます。宇宙の情報システムは一つなのです。あらゆる宇宙の存在物は、一つの「意思」から派生しています。科学万能の人間だけが、個体の脳の中にすべての情報が組み込まれているはずだと考えて、「本能」を失ってしまったのです。

「天吾がやらなくてはならないのはおそらく、現在という十字路に立って過去を誠実に見つめ、過去を書き換えるように未来を書き込んでいくことだ。それよりほかに道はない」

2009/09/05

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1Q84(No.3) 物語の効力

「そう、1984年も1Q84年も、原理的には同じ成り立ちのものだ。君が世界を信じなければ、またそこに愛がなければ、すべてはまがいものに過ぎない。どちらの世界にあっても、どのような世界にあっても、仮説と事実を隔てる線はおおかたの場合目には映らない。その線は心の目で見るしかない」

「現在」という時は存在しません。「今だ」と思った瞬間に過去になります。時間を細分化し、一秒の何千分の一、何万分の一という風に分解していけば、現在などという単位は存在しません。現在と思っているのは、過去の記憶です。われわれは過去の記憶を呼び覚ますことにより、「現在」を認識しているのです。

「過去」は存在しません。過去は過ぎ去ってしまった時間です。存在するのは現在だけです。しかし、「現在」という時間も存在しません。現在はすでに過去です。時間を一秒の何千分の一、何万分の一と極限まで細分化していけば、「現在」も「過去」も極めてあいまいな概念です。

あるのは記憶だけです。人間が存在するのは、「記憶」の中だけです。ベルグソンが証明したように、人間の脳は、膨大な「無意識」の世界の「記憶」の中から、いま必要なものだけを選り分けて、「意識」しているのです。一人ひとりの人間は、異なったフィルターを通して、異なった世界を見ています。

人は世の中をあるがままには見ていません。人は自分たちをとおして世の中を見ています。一人ひとりの人間は、「ほかの人とは違った」世界を見ています。人はみな、異なった「フィルター」を通して、過去の記憶を呼び覚ましているのです。

ある人は抽象的な「言葉」のフィルターを通して、また別な人は「お金」という数字のフィルターを通して、世の中を「分析」しています。そして自分は幸せだとか、そうでないとか感じているのです。だから心の目で見る「物語のフィルター」を手に入れた者は幸せです。それは想像と、空想と、夢見る「愛のフィルター」だからです。

「心から一歩も外に出ないものごとなんて、この世界には存在しないんだ」

2009/08/30

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1Q84 (No.2) 月の二つある世界

「もちろん、それだけでは足りない。そこには「特別な何か」がなくてはならない。少なくとも、何かしら俺には読み切れないものが含まれていなくてはならない」

最近「1Q84」の感想や書評などがたくさん出回りだした。短期間に二百万部も売れたのだから、当然の現象である。色々な感想文や書評を読んでみたが、そこにはある共通した傾向がみられる。「1Q84」は面白かったが、正直なところ、何を言っているのかよく分からないというものだ。

「星の王子さま」はファンタジーな童話のような読み物だ。口当たりがよく、みんな一気に読み終わる。しかし結局作者は何が言いたいのかよくわからない。何かの哲学が語られているらしいことは感じる。しかしピンとこない。「1Q84」も「星の王子さま」みたいな、消化不良とフラストレーションをおこす本だ。

「ここは見世物の世界、何から何までつくりもの、でも私を信じてくれたならすべてが本物になる」

一流の作品には必ず思想が宿っているものだ。それは精神世界の不思議さを、物語という作り話で描いてみせる。比喩を駆使して、複雑な世界をなんとか表現しようと試みる。比喩が理解できない読者でさえ、本能的にある種の感興を催す。しかしことが性の問題になると、途端に拒絶反応を示す者が出てくる。

曰く、村上春樹は露骨な性の描写が多く低俗だと。しかし性の描写もまた比喩なのだ。この世の常識や倫理で物語を判断してはいけない。これは「見世物の世界」なのだ。見世物を見世物としてそのまま信じた人間には、それは本物の世界になる。それができないのなら、小説など読まないほうがいい。

源氏物語は全編これ男女の性のやりとりである。光源氏をこの世の価値観で判断すれば、こんな意地汚い男はいない。しかし物語の中では、もののあわれを見事に演ずる千両役者に変身する。人間という動物が、社会というシステムに適応できずに、悶え苦しむ最大の悩みの一つが性の問題なのだ。

生殖本能は、生命体の奥深くに組み込まれたエネルギーである。それは食べることや呼吸することと同じく、「生きる」ことの本源である。バケツに首を突っ込んで自殺できる程、意志の強い男はいない。同じく性欲を抑えることのできる男も、めったにいない。種の保存の本能は、抗しがたい程強烈なものである。

神様は人間の雄に、種をバラ撒くようにDNAに組み込んだ。ところが社会システムでは夫婦制度というものが基本である。ここに矛盾と軋轢が生ずるのだ。古今東西の芝居や小説が繰り返してこの問題を扱うのは、人間という生き物の悲しさや「もののあわれ」がそこに最もよく現れているからである。

「青豆は世界の奇妙さについて思いを巡らせた。もし我々が単なる遺伝子の乗り物に過ぎないとしたら、我々のうちの少なからざるものが、どうして奇妙なかたちをとった人生を歩まなくてはならないのだろう。我々がシンプルな人生をシンプルに生きて、余計なことを考えず、生命維持と生殖だけに励んでいれば目的は達成されるのではないか」

しかるべき身分と教養を備えているはずの男が、髪の毛がヨモギのような卑しい女にでも、女と見れば誰にでも手を出す。辺りの軽蔑の目を他所に、弘法大師空海はこの男を責めてはいけないと諭す。人間という生き物に本来備わっている欲望を、あたかもその人間の人格の問題のように扱ってはならないのだと。

「世間的な考えがどうであれ、現世の法律がどうであれ、それが我々の感じる感じ方です。そのことをどうか理解していただきたい」

青豆も天吾も、奔放な性生活を送っている。まるで中学生が夢想するような、シンプルで都合のよい性行動である。市場経済の消費者のように、便利に欲望を処理している。こんなことはこの世の常識ではありえない。だからこそ物語のテーマになりえる。人間性を阻む、社会の壁の厚さの比喩として。

動物も鳥も、魚も昆虫も、植物も石も、宇宙と一体となって生きている。さんさんと降り注ぐ太陽の英知に身を委ねて、食物連鎖の輪の中で生かされている。何万年も何十万年も昔から、人類もそうして生きてきた。しかし現代人はもはや自然を意識しなくなった。我々は社会というシステムの中で生きている。

社会というシステムはヴァーチャルの世界である。それは人間が人工的に作った、仮のルールである。しかし日々の生活はこのルールで成り立っている。だから虚構は、本物よりもっと切実な「現実」になる。我々は月の二つある世界に住んでいるのだ。神様が作った本物の月と、人工の緑色の月と。

「ここにある世界のどこまでが現実でどこからがフィクションなのか、見分けがつかなくなっていた」

信じられないことに、つい百年前の我々の祖先は、自分で食べる物を自分で作っていた。隣の人も、そのまた隣の人も、自分で食べる物を自分で作っていた。このような社会では、例え何万人、何十万人の人間が一緒に住んでいても、それによるシナジー効果は期待できない。人々は食べていくだけで精一杯だった。

ところが我々が暮らす市場経済社会は、物を作る人とそれを消費する人が分離している。私は自分の食べるもの、着るもの、住む家を作らない。私は毎日会社に行って、経理の仕事をする。そして給料を貰って、そのお金で何でも買える。私は「お金」という言語を使って衣食住をしている。

市場経済システムは人類の最大の発明の一つである。それは過去のどんな楽天的な予想をもはるかに超えて、人類に繁栄をもたらした。人類の歴史は飢えの歴史だった。資本主義はこの難問を解決した。思いがけない成功に、人間は自信を持った。しかし人は、自分のいちばん得意な分野で失敗するものである。

「少女はシホンシュギ(時にはブッシツシュギという言葉が使われる)が何であるかを知らない。ただ人々がその言葉を口にするときに聞き取れるさげすむような響きからすると、それはどうやら自然や正しさに反する、ゆがんだものごとのあり方であるらしい」

人間は自分自身を機械のように組み立てて、巨大な産業社会を作り上げた。一人ひとりの人間は機械の部品であり、たった一つの機能が与えられている。ところが一つの部品が故障しても、機械は動かない。だから個々の部品は、自己責任でいつでも完璧に機能することを求められる。これを民主主義という。

部品は機械というシステムの中で初めて機能することができる。システムから放り出された部品は、もはや自力で生きる術を持たない。金融危機でリストラされた若者は、目に見えない巨大な暴力に対する恐怖心と、社会から切り離されたという疎外感から、深く長い絶望に陥る。

「そういう緊密で暴力的で、後戻りできないシステムをわたしたちは作り上げたのだ」

人間という厄介な生き物を一つに束ねて、社会というシステムを構築するためには、普遍的でシンプルなルールが必要であった。「1足す12」というのは、インドでもアフリカでも、宇宙の果てまでも変わらぬ真理である。数字という言語は、決して答えを変えない非情な言語でもある。

「だから数学の中にいると、自分がどんどん透明になっていくような気がすることがある。ときどきそれが怖くなる」

社会は生き物である。社会はその構成員である人間とは無関係に、社会の言語で動く性質がある。資本主義社会の言語は、「お金」という数字である。数字とは無色・無臭の、空気みたいに透明な言語である。それは「多いか、少ないか」以外には、何の意味も持たない言葉である。

「お金」の世界はシンプルだ。ルールはたったの一つ、収入を支出が上回ることはできないということだ。資本主義社会では「生きる」ということと、「計算する」ということは同じ意味である。そこには愛も、喜びも、性欲も入り込む余地はない。透明で無機質な、砂漠のように不毛な世界である。

ところが人間は、その不毛の地で生きてきた。金融危機に何度襲われても、「計算」を超えた底抜けの楽観主義で、人間くさい何物かを付加しながら。そして今また世界はグローバルな情報革命という、巨大な抽象性の「第三の波」に襲われている。我々はこれからも、未知なる未来の、まだ言葉もない世界を生き抜いていかなければならないのだ。

「これからこの世界で生きてゆくのだ、と天吾は目を閉じて思った。それがどのような成り立ちを持つ世界なのか、どのような原理のもとに動いているのか、彼にはまだわからない。そこでこれから何が起ころうとしているのか、予測もつかない。しかしそれでもいい。怯える必要はない。たとえ何が待ち受けていようと、彼はこの月の二つある世界を生き延び、歩むべき道を見いだしていくだろう。この温もりを忘れさえしなければ。この心を失いさえしなければ」

2009/08/23

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1Q84 (No.1) 村上春樹はゆっくり読め

「そこには人々の自然な共感を呼ぶものがあった。たぶん意識下にある何かが喚起されるのだろう。だから読者は引きずり込まれてページを繰ってしまう」

私は村上春樹を読んだことがない。いや小説そのものをあまり読まない。サラリーマン生活が長いからビジネス書ぐらいは読むが、文芸書にはとんと縁がなかった。ところが本屋の店頭で「1Q84」が山積みになっているのを見て、何気なく手に取ってみた。ページを開けて、拾い読みをした。

あれっ、と思った。予想していたのとは違っていた。何かがひっかかる。梅雨空の三連休を前にして、買ってみる気になった。読み始めると、私の勘は当たっていた。これは深刻な読み物だ。物語の面白さにつられてつい読み飛ばしてしまいそうだが、その深層には深い哲学がしっかりと包み込まれていた。

青豆が首都高速3号線を歩いて地上に降りる。延髄にアイスピックを打ち込んで、完全殺人をする。スリルに満ちた物語の展開に、ぐいぐいと引き込まれそうだ。ハゲおやじをナンパするときの、トイレの落書きみたいなセリフには思わず笑い転げてしまう。そう、この本は娯楽としても大変面白く読めるのだ。

しかし諸君、村上春樹はゆっくり読まなくてはいけない。時々立ち止まって、気になる箇所はメモをとりながら、じっくりと読み進まなくてはいけない。何故なら、これは深い思索を促す物語だからである。人間とは何か、精神世界の不思議さ、記憶とは何か、社会とは何か、歴史とは何か、・・・等々。

「小説家とは問題を解決する人間ではない。問題を提起する人間である」

読字障害のふかえりは、並外れた記憶力と鋭い直覚力を持っている。一方で作文能力に優れた天吾は、自分が書くべきものがわからない。ふかえりは学校で知恵遅れとみなされ、天吾は神童と呼ばれていた。しかし人間として、この世で生きていくための、本当の知恵を備えているのはどちらだろう。

「この少女は本が読めないぶん、耳で聞き取ったことをそのまま記憶する能力が、人並み外れて発達しているのではないだろうか。サヴァン症候群の子供たちが、膨大な視覚情報を瞬時にそのまま記憶に取り込むことができるのと同じように」

文字とは便利なものである。言葉は紙の上に記録されると、そこで時間が止まる。いつでも、何回でも読み返すことができる。これが文字の得である。必要なものは文字に記録しておけば、いつまでも残る。だから人々は記憶を文字に託するようになり、次第に記憶力が衰えていった。

文字のない時代の人々は、頼れるものは自分の記憶だけである。だから昔の人の記憶力は、たいへんなものであった。ふかえりのような人間が普通だった。精神力とは記憶力である。文字に記憶を託する人々は、次第に精神力が衰えていった。自分で物を考えず、手っ取り早く書物に頼る人間が増えてきた。

印刷技術が発達して、安く大量に書物が作れるようになった。そしてたくさんの書物を読み、たくみに言葉を操る「知識人」が出現してきた。知識があることと、文字を知っていることとは同じ意味になった。一度も企業の経営をしたことのない人間が、大学院で経営学の講義をする奇妙な時代が到来した。

「しかし学校のクラスの中にディスレクシアの子供が一人か二人いたとしても、決して驚くべきことではない。アインシュタインもそうだったし、エジソンもチャーリー・ミンガスもそうだった」

アインシュタインやエジソンが読字障害だったというのは、単なる偶然ではない。彼らは物を考えるということの本質を教えてくれる。物を考えるということは、独創的な発想をすることである。書物に書いてある通りに物を考える学者には、独自の発明というものが見られない。

いくら本を読んでも、自転車に乗れるようにはならない。同じく、いくらMBAの知識を貯め込んでも、少しも商売の役に立たないこともある。文字は便利だが、人間を愚鈍にする性質がある。何でも言葉で理解できると思い込み、何でも言葉で説明を求める。自分の頭は少しも働かせずに、手っ取り早く。

「説明しなくてはそれがわからんというのは、どれだけ説明してもわからんということだ」

文字のない時代の人々は、だからといって、少しも生活の不便を感じていなかった。彼らは驚くべき記憶力と、信じられない程の洞察力を備えていた。獲物が今どこにいるか、いつどこに行けば木の実が熟しているか、全部頭に入っていた。一目見ただけで、相手が何を考えているか理解できた。

「その指には、患者の脈を測っている医師の、職業的な緻密さに似たものがあった。この少女は指や手のひらの接触を通して、言葉では伝えることのできない情報の交流をはかっているのかもしれない」

人間は、いや現代人は、自分が独立した個だと思っている。だから外界の情報が頭の中に入ってきて、脳で識別すると思っている。知識とは頭の中の単語帳に記録されるものだと思っている。そんな風に考える人間が現れたのは、ついこの数百年来の珍事である。民主主義に毒された近代人だけである。

「カラスは頭のよい動物だ。彼らはその鉄の塊が重要な意味を持っていることを理解している。何故かはわからないが、彼らはそれを知っている」

カラスだけでなく、生きとしいけるものはすべて賢く創られている。動物もトリも魚も、何十万年も、何百万年も昔から厳しい自然の中で生き抜く知恵を持っていた。学校にも行かず、本も読まないのに、何故あんなことを知っているのだろう。と考えるのは、人間だけである。

動物もトリも魚も、文字を持っていない。しかし生活には困らない。彼らは自然と一体となっている。自然は彼らの身体の中を流れている。だから大気や大地や海が発する宇宙からの情報を、直接身体で読み取ることができる。本当に物がわかるというのは、そういうことである。

「ギリヤークじんはサハリンにすんでいてアイヌやアメリカ・インディアンとおなじでジをもたない。キロクものこさない。わたしもおなじ。いったんジになるとそれはわたしのはなしではなくなる」

リンゴは一つひとつ、形も味も違う。しかし「りんご」という言葉はたったの一つである。何万、何十万というリンゴから個性を剥ぎ取り、空気みたいに無色・無臭にしたものが「言葉」である。言葉が共有されるためには、普遍的でなければならない。普遍的とは、抽象的で個性がないということである。

言葉を紙の上に記録すると、時間が停止する。個性のない抽象的な言葉が静止すれば、もはや生き物とは呼べない。それは単なる無機質な物質である。ふかえりは、「文字は死である」ことを理解していたのである。ある分子生物学者が言ったように、生き物とは絶えず自分を壊し再生する動的なバランスである。

「人の表皮細胞は毎日4千万個づつ失われてゆくのだという事実を天吾はふと思い出した。それらは失われ、はがれ、目に見えない細かい塵となって空中に消えてゆく」

外界の動植物が食物として体内に取り入れられ、消化されて新たな細胞となる。古い細胞は破壊されて、また自然界へ戻っていく。万物は生々流転すると、数千年前のインドの聖者も教えている。生命とは川の流れのようなものである。紙の上の文字のように、長く一箇所に止まることは許されないのだ。

刻々と流れ続ける生命の流れを、文字で紙の上に固定することは不可能である。罪と罰とを法律で固定する近代の法治国家は、根本的な矛盾を抱えているのだ。それは精神世界に属する人間という生命に、物質的な万有引力の法則を適用しようとするに等しい。

善意とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。逆もある。ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」の中で描いたのもそのような世界の有様だ。重要なのは、動き回る善と悪とのバランスを維持しておくことだ。

あまり学問ばかりしていると人間がバカになることは、源氏物語の昔からよく知られていたことである。あらゆる生き物はもともと、神様によって賢く創られているのだ。さんさんと降り注ぐ太陽の英知を、全身で信頼することだ。犬も猫も、メジロもヒヨドリも、あんなに楽しそうに飛び回っているのに。

「決まった設計図みたいなものはない。その場その場で、直感と経験を駆使して工夫していくしかない」

2009/08/15

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数字の真贋

素人には、骨董品の見分け方は難しい

本物と偽物の、区別がつかない

美しい絵画に、二束三文の値がついたり

古びた茶碗に、破格の値がつくことがある

刀の「うつり」は、素人には見えない

ただ無心に、何年も何十年も修行を重ねて

ある日突然、見えなかったものが見えてくる

身体で覚えるしか、方法がない技能なのだ

数字の見分け方は、もっと難しい

数字はたったの十個の文字で出来上がっている

だから偽物の数字と、本物の数字は

外見上は、まったく同じなのだ

アナログのカセットをダビングすると

だんだんと音質が、劣化してくる

ところがデジタルのCDは、何回ダビングしても

まったく同質のコピーができる

いったん数値化すると、見かけの上では

粗悪品も、優良品も区別がつかなくなる

だから偽物に、高い代価を払わされることになる

数字は便利な道具だが、諸刃の剣なのだ

お金は数字である

現代人は、数字で衣食住をしている

市場経済の、普遍的な言語である数字とは

品質の区別がつかない、厄介な記号なのだ

サブプライムも、プライムに仕立てられ

粉飾決算も、破綻するまで分からない

バブルの最中には、バブルと気づかない

だから金融危機は、何回でも襲ってくる

一流企業が、粗悪な数字を用いて

企業の経営を、コントロールしている

そしてある日突然、経営に行き詰まる

まるで偽物を掴まされた、被害者のように

数字とは「多いか、少ないか」以外には

何の意味も持たない、言語である

だから数字だけを分析しても、意味がない

金融工学で見えない世界こそ、重要なのだ

数字を読むことは、均質なデジタル世界を通して

人間の住むアナログ世界を、想像することである

それは骨董品の、真贋を見分けるように

コツコツと長い時間をかけて、身に付ける技能なのだ

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飢えを忘れた人々

犬はどうして、あんなに

がっついているのだろう

食べ物を見ると、目の色が変わる

親は子どもを押しのけ

兄弟も敵同士みたいに、相争う

池のコイも、公園のスズメも

われ先にエサに群がってくる

トリも魚も、カエルもヘビも

食べることが、最優先なのだ

食べるために、生きているのだ

「いただきます」と両手を合わせて

ニコニコ笑いながら、食事をするのは

人間ぐらいのものだ

現代人はいつでも、どこでも手に入る

豊富な食物に、囲まれているから

しかし数十億年の、生き物の歴史の中で

食べ物はいつも不足していた

彼らはいつも飢えていた

だから食べ物を見ると

われ先に群がってくる

飢えとは、生命への渇望である

生きているから、飢えを感じる

ある分子生物学者が言ったように

食べるということは

宇宙の情報を、体内に取り込むことだ

生きとし生けるものは

食べ続けなければならない

食べるということは

宇宙と一体となって

生命の営みを、交信することなのだ

人間も、例外ではなかった

人類の歴史も、飢えの歴史だった

何百万年、何千万年もの長い時間

人間も、がっついていた

われ先にエサに群がっていた

飢えを知らない人々が、出現したのは

ほんの数百年来の、出来事なのだ

人間そのものを、機械のように組み立てて

市場経済システムが、発明されたために

人類は初めて、飢えから解放された

現代人は、市場の言語を話すようになった

お金という数字で、衣食住をする人々は

やがて数字のように、物を考えるようになる

「飢え」という、自然との絆を断ち切られて

人々はやがて、宇宙の言語を理解できなくなった

大宇宙の生命の流れから、切り離されて

心の拠り所を失った、精神の「根無し草」は

行くえ知らずの、「宇宙の迷い子」になり果てた

そして「民主主義」という、孤独に耐え切れずに

ペットを溺愛して、自然との絆を思い起こそうとする

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忘れられたもの

乳母車の幼児が、自分の耳で遊んでいる

小さな手で、耳を塞いだり開けたり

不思議な音の世界を発見して

初々しい驚きの表情が、可愛らしい

ああ子どもは、生きているだけで楽しいのだ

どこかから、「楽しさ」がアクセスしてきて

幼児の背中に、取り付いているのだ

だから子どもは、楽しくてしょうがない

きゃっきゃっと笑う声が、響き渡る

なんて心が癒されるリズムなんだろう

子どもは遊び道具なんて、何でもいいのだ

なんせ最初から、楽しくてしょうがないのだから

見るもの聞くもの、好奇心の対象なのだ

よちよち歩きで、危なっかしいのに

右に左に、何かを追いかけている

スズメがちゅん・ちゅんと、朝の詩を歌っている

シジュウカラが高竿で、ツー・ピーと鋭く鳴く

猫が背中をくねらせて、ゆっくりと歩いている

ああみんな生きていることを、楽しんでいるのだ

こんな当たり前のことが、忘れられてしまった

月曜日の朝の、永田町のエスカレーターは

不機嫌な顔をした、大量のサラリーマンを

地底から力ずくで、運び上げている

さあこれからまた、無機質な一週間が始まるのだ

数字という言葉を話す、組織社会の中で

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都鳥(みやこどり)

白い鳥が、真っ逆さまに水中に突っ込む

水しぶきが上がったと思ったら

小魚を口にくわえて

素早く空中に舞い上がって行く

ひらひらと蝶が舞うように

上下左右に、不規則に

飛行進路を変えながら

水中の小魚を追いかける

眼下に、獲物を見つけると

糸の切れた凧のように

くるりくるりと回転しながら

ぽちゃんと、水面に落下する

市谷橋の上から、外堀の水面を覗き込む

濠の水は濃緑色で、まるで抹茶のようだ

鳥は空の上から、エサが見えるのかしら

洗練された職人技に、しばし見とれる

飽きることなく、繰り返される動作

大都会の空を、ひらひらと舞っては

ぽちゃんと、水中に突っ込む

いつまでも、いつまでも

昨日も、今日も、明日も

何十年も、何百年も昔から

都鳥は、こうして生きてきたのだ

ひらひら・ぽちゃんを繰り返して

そうか、生きることとは、食べることなのか

都鳥は、必死に生きているのだ

純白のシルエットが、青空に溶け込んで

ああこんなに美しく、生きられるなんて

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ハトの時間

外苑のイチョウ並木を、毎日散歩する

明るい日差しの、並木道で

ハトが数羽、エサを啄ばんでいる

キョトンとした、目つきで

歩くたんびに、首を前後に振って

地上のハトは、無防備で

なんとも、のろまに見える

鋭い羽音をたてて

ハトが舞い上がった

空中のハトは、戦闘機のようだ

空気を切り裂くような

鋭角的な、翼の動き

これがあの、のろまなハトかと

見紛うばかりの、変わりようだ

空中の切れ味鋭い、秀才エリートが

地上では、愚鈍な田舎物に変身する

キョトンとした目の、迷よい子は

たまにはネコに、襲われることもあるが

それでもハトの一族は、繁栄している

何千年も、何万年も昔から

ハトはこんな風に生きてきた

こんなに不器用なハトでも

ちゃんと生きてこられたのだ

何か超自然の力に

しっかりと護られているとしか

考えられないではないか

何を思い煩うことがあろうか

われわれも、人生に疲れたら

キョトンとした目の、不器用な

ハトの時間を作ることだ

さんさんと降り注ぐ

太陽の光を全身に浴びて

思いっきり、深呼吸をしよう

何も考えず、頭の中を空っぽにして

母なる宇宙を感じてみよう

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星の王子さまが教えてくれたこと

リーマン・ブラザーズのCEO

財務長官のヘンリー・ポールソンも

バーナンキや、グリーンスパンでさえも

口をそろえて、白状している

こんな危機になるとは思わなかった、と

別に彼らが、無能だった訳ではない

夢をみている時は、誰でも夢だと分からない

夢から覚めて初めて、ああ夢だったと気づく

バブルの最中には、バブルに気づかない

バブルが弾けて初めて、バブルだったと気づく

今では誰でも知っている

不動産バブルに、金融バブル

過剰消費バブルに、過剰借金バブル

ああ世界中が、夢を見ていたのだと

われわれは、過去に遡って

株式投資をすることができれば

誰でも簡単に、儲けることができる

難しいのは、投資がいつも

将来を予測しなければならないからだ

未来のことは、誰にも分からないのに

経済活動は、「数字」で語られる

株価も為替レートも、GDPも失業率も

数字という、単純な記号で表示され

人々はそれを見て、一喜一憂する

だから人々は、次第に

経済は数字の論理で、動いているのだと

錯覚するようになる

社会は正確に、未来が計算できる

論理の連鎖で、出来上がっているのだと

錯覚するようになる

ところが経済活動で使う数字は

先が読めない、「お金」という数字だ

数字でありながら、数字でない

経済活動の、言語としての

ひどく人間くさい数字なのだ

市場の価格は、「人間」が決める

直覚や欲望や恐怖という

人間の感情が、価格を決める

だから市場で決まる価格は

数学的に証明できない

社会の言語としての数字なのだ

市場は「生き物」だと言われる

人間という「生き物」が

経済活動の主体なのだ

これは当たり前のようだが

忘れられがちな事実である

セールスマンは、販売予測が外れると

がっかりはするが、気持ちを切り替えて

立ち直ることができる

しかし数字は、計算が合わないと

決して自力で、前に進むことができない

バランスシートが、破壊されると

資本主義社会は、機能を停止してしまう

切れ味鋭い特効薬が、副作用を伴うように

「人間と数字」という、異質な組み合わせは

めざましい、経済成長をもたらす一方で

それに匹敵する不安を、撒き散らしている

「人間」という「生き物」は

測定されることを、拒んでいるのだ

だから社会は、定期的に

「計算不能」の恐慌状態に陥る

金融危機という、自己免疫疾患は

「測定されたくない!」という

内なる心の、悲痛な叫びなのだ

道に迷ったら

迷った場所に、引き返すのが

一番の早道だ

今の世界に求められているのは

迷った場所に、引き返す勇気だ

「人間はどうしたら幸せになれるのか」と

初心に戻って、問いかけることだ

砂漠の中の、「星の王子さま」みたいに

「目に見えない大切なもの」を求めて

自問自答を繰り返すことだ

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視覚化と静止化

ふと思い出したことを

メモに書き留めておく

そうすれば、人間の記憶は

紙の上に、いつまでも残る

後で、ゆっくりとメモを見て

用件を片付けることができる

これは当たり前みたいに

簡単なことだけれど

実は大変な出来事なのだ

人類の進歩と、科学技術の発展に

大いに関係がある行為なのだ

昔の人は、音楽とは

時間とともに、連続して

流れ去るものだと考えていた

流れ去った、音の流れを

記憶している人は

誰もいなかった

ところが中世末期の

西ヨーロッパ人は

楽譜を発明して

音の流れをグラフ化した

タテ軸は、音の高低で

ヨコ軸は、音の長さだ

視覚化された、音の流れは

紙の上で、時間が止まった

後でゆっくりと

読み返すことが可能になった

音楽は耳で聞くものから

目で見るものに変わった

曲の前後を、ひっくり返したり

メロディーとリズムを分けたり

それを後でまた、結合したり

より複雑で、より高度な

作曲が可能になったのだ

昔の人は、お金の出入りも

川の流れみたいだと思っていた

流れ去った、お金の流れを

記憶している人は、誰もいなかった

ところが中世末期の

西ヨーロッパ人は

複式簿記を発明して

お金の流れを記録した

視覚化された、お金の流れは

紙の上で、時間が止まった

後でゆっくりと

読み返すことが可能になった

損益の原因を調べたり

差額や比率を計算して

資金効率をチェックした

その結果ビジネスは、より確実で

コントロールが可能なものになった

やがて人間は、あらゆる事物を

視覚化し、紙の上に静止化しようと試みた

長さや重さや、速さや強さなど

目に見えないものは

測定して、数値化した

数値化することにより、視覚化した

視覚化された、自然の働きは

紙の上で、時間が止まった

じっくりと時間をかけて

観察することが、可能になった

この実証的な態度は、やがて

事物と事物を支配している

物理の法則を発見することに繋がった

新幹線も、ジャンボジェットも

高層ビルも、コンピューターも

物理の法則の応用なのだ

視覚化と、静止化の成果なのだ

自信を持った人間は

やがて自分の住む、社会そのものを

視覚化し、静止化して

まるで機械でも組み立てるように

物理の法則を適用して

人間を組み立てようと試みた

社会のルールを、誰でも分かるように

文章化し、視覚化して

法律を制定して、国を治めた

紙の上では、うまくいくはずだった

しかし法律は、紙の上で静止している

静止した法律で、生きた人間を

コントロールすることなど

網で水をすくうように

所詮は無理な相談なのだ

人間は「生き物」で、社会も生きている

変化する社会は、法律の網からはみ出す

だからまた法律を追加する

するとまた人間は、別の抜け穴を見つける

いたちごっこの末、膨大な法律の山ができた

一生かかっても読めないほどの

膨大な量の、法律の山を前にして

世界中の首脳が集まって、性懲りも無く

危機が発生したのは

規制が足りなかったからだと

またもや新たな規制の網を、張り巡らす

いたちごっこに、没頭しているのだ

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数字を読む

一年間の売上は、いくらかね

と、営業マンに尋ねる

はい、50億円です

と、こともなげに答える

当たり前のことのようだけれど

これは大変なことなのだ

何十人、何百人の営業マンが

何十種類、何百種類の商品を

一年間かけて売った、総トータルを

はい、50億円です

と、たったの一言で

答えることができるのだ

コップの水を、バケツの水に注ぐと

バケツの水は、均一に混じり合って

もとのコップの形状を

まったく留めていない

数字は、水や空気のように

総てを溶かす、抽象化作用を持っている

だから何千、何万という

個々の売上を合計して

はい、50億円です

と、たったの一言で

表現することができるのだ

リンゴは、1個と数えることができる

ミカンも、1個と数えることができる

そして、驚いたことに

リンゴとミカンを足すこともできるのだ

2」という数字は

リンゴ1個とミカン1個かも知れないし

1個とすっぽん1匹かも知れないのだ

キャベツ畑に雪が積もれば

あたりは一面の、銀世界に変わる

雪が降る前に、さお竹を立てておかなければ

どこがキャベツ畑か、識別が付かなくなる

抽象化は便利だけれど、不便でもあるのだ

売上の合計を50億円と、一言で表現できる代わりに

どこにキャベツがあったのか、分からなくなる

さお竹を立て忘れると、えらいことになる

利益はいくらかね

はい、3億円です

たいていの会社は、それで終わりだ

雪がすっぽりと覆っているから

中味が分からないのだ

数字を「読んで」

経営の中味を、正しく把握するのは

それほど簡単なことではない

白一色の、雪野原の下には

都合のいい情報もあれば

都合の悪い情報も、埋もれている

だから一部分だけを、掘り起こしてみても

本当の会社の姿は、分からないのだ

ビジネスの言語は数字なのに

数字が読める経営者は少ない

別に経営者が、怠けている訳ではない

数字そのものが、あまりに単純すぎて

読めないようにできているからだ

数字は「多いか、少ないか」意外には

何の意味も持たない、言語なのだ

読む人が、能動的に働きかけなければ

何一つ教えてくれない

銀世界のように、抽象的な言葉なのだ

意味のない、数字を読むには

雪の下の世界を、想像しなければならない

銀世界と、キャベツ畑を結びつけるのは

人間の直覚と、想像力なのだ

直覚や想像力を磨くには

日々のたゆみない努力以外に、方法はない

MBAのケーススタディみたいな

標準化された、方法論は

簡便だが、実戦の役に立たない

何故なら、いくら本を読んでも

自転車に乗れるようにはならないからだ

コツコツと

長い時間をかけて

イチローみたいに

努力を積み重ねることだ

人間の身体は

そのように出来ているのだ

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迷える子羊

寒風が吹きすさぶ

凍りつきそうな水面を

水鳥がスイスイと泳いでいる

時々水中に陥没して

小魚を追いかける

彼らは冷たくないのだろうか

と、人間は考える

ヒヨドリもメジロも

この寒空の下

どこかの梢に

じっと身を寄せ合って

長く暗い夜を過ごすのだ

ひたすら朝の太陽を

待ちわびながら

さぞかし辛かろうに

と、人間は考える

鳥は翼で空を飛ぶ

人間は飛行機を作る

魚はヒレで水中を泳ぐ

人間は船を作る

この地球上の

あらゆる生き物たちは

自分自身の身体を、変形させて

自然の中で、生きていくための

最適なスペースを見出す

恐竜は鳥になり

オットセイは海に潜り

ゾウは鼻を伸ばし

キリンは首を伸ばす

人間だけが胎児の形のままで

赤ん坊のような、大人になる

人間だけが違うのだ

人間だけが、宇宙の迷よい子なのだ

人間は飛行機を作れるが

自分の身体に、翼を生やせない

人間は船を作れるが

自分の身体に、ヒレを生やせない

自分の身体を、変形させる術を忘れた人間は

まるで飛行機でも作るように

こともなげに、自然の神秘を説明する

鳥が翼を生やしたのは

進化論のせいだ

突然変異のせいだと

しかしあらゆる生き物は

魂を持って、生きているのだ

精神が宿っているのだ

神様が宿っているのだ

鳥自身が望まないのに

神様が翼を与える訳がないではないか

本当は鳥が必死になって祈ったのだ

私に翼をくださいと

全身全霊の祈りが、神様に届いたのだ

そんな馬鹿なことはない

そんな非科学的なことは、信じられない

人間は宇宙の神秘を、一笑に付す

未開の土人の、たわごとを扱うみたいに

夢を見ているときは、夢と気づかない

夢から覚めて初めて、夢だったと分かる

だから迷える子羊は、迷い続ける

「科学」という迷信から、目が覚めるまでは

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野球とビジネス

野球をプレーするのは人間だが

勝敗は数字で決まる

得点と失点の差が

1点でも多い方が勝ちだ

だからホームランバッターでさえ

緊迫した場面では

進塁を最優先して

送りバントをさせられる

もちろん各プレーヤーが

強くなくては勝てない

だからイチローは毎日まいにち

練習を欠かさない

何百回、何千回と

素振りを繰り返す

長い時間をかけて

身体で覚えるしか方法がないからだ

それでも試合は

最後は数字で決着が付く

勝つためには

1点でも多く、得点したい

1点でも少なく、失点を抑えたい

だからチームは一丸となって

協力しなければならないのだ

ビジネスの結果も

ハッキリと数字に表れる

もちろん商品に魅力がなければならない

お客さんに、喜んでもらうためには

おいしくなくてはいけない

美しくなくてはいけない

それでも最後は

ビジネスの結果も

数字で決まるのだ

バランスシートの差となって

ハッキリと損益が確定するのだ

あんなに繁盛していた

イタリア・レストランが

1ヶ月先まで予約で一杯だったのに

突然閉店した

あんなにまずいラーメン屋が

30年も続いている

なんだか不思議な気がするが

これが資本主義のルールなのだ

ビジネスの結果は

「お金」という数字で決まる

会社も野球の試合も同じだ

一人ひとりの人間の努力と

必ずしも比例はしないが

最後は数字で決まる

これが「勝負の世界」のルールなのだ

野球の試合は、誰でも

得点経過がよく分かる

しかし会社の得点経過は

必ずしもよく分からない

会社の得失点は、経理課が計算する

金額は何億、何十億という巨額になり

試合が完全に終わってから、計算を始める

試合中は、誰も得点経過を知らない

だから野球みたいな、連係プレーができない

中には経理情報を、秘密にする企業さえある

だからみんな、得点経過が分からずに

タテ割組織の、お役所みたいに

バラバラにプレーする

信じられないかも知れないが

これが多くの企業の実体なのだ

みんな朝早くから、夜遅くまで

一生懸命がんばっているのに

これでは勝負に勝てる訳がない

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